渋染一揆(読み)しぶぞめいっき

改訂新版 世界大百科事典 「渋染一揆」の意味・わかりやすい解説

渋染一揆 (しぶぞめいっき)

江戸末期,岡山藩領内の被差別部落の人々が藩の身分差別強化と闘った一揆。藩は1856年(安政3)藩政改革一環として29ヵ条の倹約令を発布したが,最後の5ヵ条が差別を受けている人々の渋染藍染以外の衣類,紋付の着物の着用等を禁じた差別条項である。翌年領内53ヵ村の人々は,この差別条項の撤回を要求し,寄合を重ねて嘆願書を作り郡代に差し出した。郡代がこれを無視し拷問をもって調印を迫ったため強訴に発展,6月13日吉井川一日市河原に結集した千数百の強訴勢は,家老伊木若狭の陣屋町虫明(むしあげ)に向かい,途中邑久郡佐山村で伊木勢と遭遇,3日2夜の交渉の末嘆願書差出しに成功,後日差別条項空文化の約束を得た。しかし指導者12名が投獄され,6名は3年以内に釈放されたが6名は獄死した。一揆指導者の手で〈禁服訟歎難訴記〉〈屑者重宝記〉など貴重な一揆の記録が残され,この闘いの伝統は1923年の岡山県水平社の運動に継承された。
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百科事典マイペディア 「渋染一揆」の意味・わかりやすい解説

渋染一揆【しぶぞめいっき】

幕末に備前岡山藩領内で起こった強訴事件。1854年岡山藩は破綻した藩財政立て直しのため藩札の価値を10分の1に引き下げた。この措置に領内大庄屋等が抵抗,藩領東部では百姓一揆が起こる気配もあった。藩はこの局面を身分に応じた倹約令を出して乗切ろうとした。1856年には被差別者に対する倹約令(別段触書)が出されたが,反対する強訴が起こり,別段触書は空文化された。ただし捕縛された指導者のなかには獄死する者もいた。なお別段触書のなかに渋染衣類着用等を強制する差別条項があったため,のち渋染一揆と称された。→身分制度

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「渋染一揆」の意味・わかりやすい解説

渋染一揆
しぶぞめいっき

江戸末期、岡山藩内で起こった身分差別反対一揆。岡山藩では1855年(安政2)12月に穢多(えた)の衣類を渋染めか藍(あい)染めに限定する「別段御触書(おふれがき)」を出したが、こうした差別の顕在化に反対し、翌年に藩内50の被差別部落が結集して惣寄合(そうよりあい)を結成し、触書の撤回を嘆願した。これが差し戻されると、闘いは小前(こまえ)層を中心とする強訴(ごうそ)へと発展、大庄屋(おおじょうや)や村役人の説得を無視して、家老伊木若狭(いぎわかさ)の虫明(むしあげ)陣屋へと行動を起こした。藩内では穢多からの嘆願書をめぐって対立もあったが、「別段御触書」を空文化することになり、一揆の目的は達せられた。しかし、その後に指導者の検挙と処罰が行われ、同時に郡方役人や村方役人も、その指導が適切でなかったとして処罰を受けた。この一揆は、藩の農民に対する収奪路線の一環として、部落差別を強化しようとしたとき発生したものである。

[三好昭一郎]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「渋染一揆」の解説

渋染一揆
しぶぞめいっき

1856年(安政3)岡山藩の差別規制強化に反対して穢多身分の者がおこした一揆。藩が前年に出した倹約令29カ条のうち,穢多身分を対象とした部分で,衣類を無紋の渋染・藍染とするとした規制に反対する一揆だったので,この名がある。主張は,自分たちは高(田畑)を所持し,年貢も納める農民で百姓と差別されては困るという論理であった。1月に竹田村紋次郎や国守村豊吉が中心となり,領内53カ村をとりまとめて嘆願に及んだが,3カ月後に差し戻された。このため強訴(ごうそ)参加の廻状が回され,6月13日,吉井川の八日市(ようかいち)河原に約1500人が結集した。一揆勢は3日2夜の交渉の末,筆頭家老伊木若狭に嘆願書を届けることができ,闘いの結果,新たな身分規制を事実上撤回させることに成功した。

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