大豆戸村(読み)まめどむら

日本歴史地名大系 「大豆戸村」の解説

大豆戸村
まめどむら

[現在地名]鳩山町大豆戸

赤沼あかぬま村の西に位置し、北は熊井くまい村。古くは南接する入間いるま小用こよう村と一村であったといい、当村を上越用かみこいよう、小用村を下越用とよんでいたという(風土記稿)。宝治元年(一二四七)六月四日の越生有高譲状写(報恩寺年譜)によれば、「越生郷台之屋敷并水口之田・大豆土等」が越生有直に譲られている。同年一〇月一日、将軍藤原頼嗣は譲状の旨に任せて「入西郡越生郷水口田・豆土等」を有直に安堵した(「藤原頼嗣袖判下文写」同年譜)。この頃当地は越生おごせ(現越生町)内に含まれていたことになる。応永二四年(一四一七)一〇月一四日、鎌倉公方足利持氏は明石左近将監跡である「比企郡大豆土郷」を伊豆国三島みしま(現静岡県三島市)に寄進し、同日、関東管領上杉憲基は下地を同社雑掌に沙汰付けるよう武蔵国守護代長尾尾張守忠政に命じている(「足利持氏寄進状」三島大社文書、「上杉憲基施行状」同文書)

大豆戸村
まめどむら

[現在地名]港北区大豆戸町・篠原北しのはらきた二丁目・菊名きくな五―七丁目・新横浜しんよこはま三丁目

東は菊名村・師岡もろおか村、西南篠原村西北鶴見つるみ川を境として都筑つづき新羽につぱ村、北は太尾ふとお村に接する。鳥山とりやま川が鶴見川東堤沿いに流れる。菊名村の溜井から引く用水堀が村内で二派となる。小田原衆所領役帳に小幡勘解由左衛門「廿五貫文 小机大豆津」とある。

近世初めは幕府直轄領、元禄一〇年(一六九七)旗本高野・諏訪領の二給。田園簿では田二七四石余、畑八三石余。元禄六年の田三五町七反、畑一三町八反(横浜市史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報