篠原村
しのはらむら
[現在地名]灘区篠原本町一―五丁目・篠原中町一―六丁目・篠原南町一―七丁目・篠原北町一―四丁目・長峰台一―二丁目・篠原伯母野山町一―三丁目・篠原台・大月台篠原
五毛村の東、六甲山地南麓とこれに続く段丘・沖積地に位置する。六甲川と杣谷川が村内で合流し都賀川となる。中世は都賀庄内にあり、文安四年(一四四七)頃の夏麦山手注文(天城文書)には「しの原」の三郎五郎がみえる。文明元年(一四六九)一一月日の都賀庄寺庵帳(同文書)には慶隆寺(現浄土宗慶光寺)が記される。長享三年(一四八九)五月吉日の都賀庄夏麦指出(同文書)には作人として大郎五郎大夫が載り、大永元年(一五二一)一一月二三日の都賀庄末吉名田数注文(同文書)でも大郎五郎大夫・左衛門・大郎衛門・兵へなどがみえ、ほかに「しのわら村」としても耕作していた。
篠原村
しのはらむら
[現在地名]大口市篠原
青木村・目丸村の北にあり、北西は木之氏村。西部を水之手川が南に流下し、中央北寄りを山之口川が南西流して水之手川に注ぐ。薩摩国建久図田帳に牛屎院光武名の名主としてみえる九郎大夫国吉は篠原氏で、当地あたりを本拠地としていたとみられる。元亨二年(一三二二)一〇月二六日の大秦(太秦)元尚和与状(旧記雑録)には牛屎院のうちとして篠原里がみえる。同年、以前から牛屎郡司元尚(牛屎氏)と光武(篠原)孫九郎国頼との間で争われてきた篠原・目丸両里内の田薗荒野畠地の領有などをめぐる相論が和与となった。これにより篠原里のうち西部坪のうち七段、榎田坪のうち一町(ただし孫六国長跡知行分)などを含む本田九町六段一杖中・余田一町八段三杖中、薗二ヵ所、荒野三町が縄引され、国顕方へ打渡された。
篠原村
しのはらむら
[現在地名]港北区篠原町・篠原台町・篠原西町・篠原東一―三丁目・錦が丘・富士塚一―二丁目・篠原北一―二丁目・仲手原一―二丁目・新横浜一―二丁目
東は菊名村・大豆戸村、南は六角橋村・神奈川宿(現神奈川区)、西は岸根村・鳥山村、北は都筑郡新羽村に接している。北西を北流する鶴見川側に大豆戸村が入込む。西境を鳥山川が北流し、村内の悪水を集める土浮川が合流する。用水は北方の逆水除樋、小字会下谷の溜井を用いる。「鶴岡脇堂供僧次第」に供米料所として「篠原」がみえる。小田原衆所領役帳に三郎殿「卅五貫 小机篠原 代官金子出雲」とある。
近世初めは幕府直轄領、正徳二年(一七一二)旗本新見領と幕府直轄領の二給。
篠原村
しのはらむら
[現在地名]加賀市篠原町・篠原新町
塩浜村の東、柴山潟の北西岸に位置し、北の日本海に面した地に出村の篠原新村がある。篠原は笹原とも書き(江沼志稿)、明治頃から笹原の表記が一般化したが、昭和二六年(一九五一)篠原に改めた。篠と竹が同義であることから当地を「和名抄」江沼郡の竹原郷に比定する説があり(大日本地名辞書)、「延喜式」神名帳の篠原神社の鎮座地と考えられる。橋立台地の北端部に位置する篠原シンゴウ遺跡は古墳時代から平安時代にかけての複合遺跡で、昭和五七年の発掘で掘立柱建物跡一五棟などの遺構を検出。出土品には須恵器・土師器・灰釉陶器・青磁片・布目瓦片・フイゴ羽口・金環・鉄釘・土錘・鉱滓など多数があった。とくに注目されたものに「厨」と判読できる墨書土器があり、官衙的色彩の濃い遺跡と推定されている。篠原新遺跡は新堀川河口に近い左岸低砂丘地に所在する奈良・平安時代の遺跡で、昭和三〇年代に発掘調査が行われている。
篠原村
しのわらむら
[現在地名]前原市篠原・前原駅南二―三丁目・前原東一丁目・前原南一―二丁目
有田村の北に位置し、東は志摩郡波多江村、北は同郡浦志村・前原村。中世は怡土庄の内。仁治元年(一二四〇)閏一〇月二日の関東下知状案(中村文書/鎌倉遺文八)に「怡土庄内篠原・安恒両村」とみえ、佐志増は妻の草部氏の相伝私領である両村を地頭清親が押妨していると訴え勝訴している。安恒村は現大門に比定され、天文二〇年(一五五一)王丸隆は養子の鶴寿丸に安恒名のうち王丸一五町などを譲っている(同年閏正月二三日「王丸隆譲状案」児玉
採集文書/筑前怡土荘史料(九州荘園史料叢書))。
篠原村
しのはらむら
[現在地名]浜松市篠原町
小沢渡村・高塚村の西に位置し、遠州灘に面する大村。中央を東西に東海道が通る。北は新川を挟み志都呂村。建武三年(一三三六)九月日の仁木義長軍忠状写(古文書集)に「篠原合戦」とみえ、同年四月新田義氏が三河に乱入した際、仁木義長の父義高らの活躍でこれを破り、遠江へ敗走した義氏を追って九月一三日に篠原から引間を経て天竜川近くで合戦し、義高は天竜川端で討死したという。これは新田義氏が東海道沿いに逃げたことを示している。天文七年(一五三八)三月一七日、吉沢左近が坂小三郎に「遠州しのはら西むら」一円の伊勢道者職を売っている(「吉沢左近道者職売券」御巫文書)。
篠原村
しのはらむら
[現在地名]小山市田川
鬼怒川西岸の沖積地に位置し、都賀郡と河内郡との境にある。北は河内郡上坪山村(現南河内町)、南から西は同郡絹板村(現同上)・舟戸村。近世初めは舟戸村とともに一括して篠原村として扱われ、慶安郷帳に村名がみえる。しかし文禄四年(一五九五)の検地では高三七七石余、うち当村分一六六石余(年未詳「舟戸村・篠原村領主代々書上」神戸庄三郎文書)。慶安・元禄・天保各郷帳などでは河内郡内とされるが、延宝二年(一六七四)の篠原村・舟戸村・坪山村高免につき年貢減免願書(神戸庄三郎文書)などでは都賀郡を称し、一般的には舟戸村とともに都賀郡としたようである。寛永一〇年(一六三三)に旗本山田領、寛文七年(一六六七)幕府領。
篠原村
しのはらむら
[現在地名]磐田市篠原
岩井村の北、太田川中流右岸沿いの沖積平野および磐田原台地東縁にある。豊田郡に属する。延文五年(一三六〇)三月の奥書がある「神鳳鈔」に「篠原神戸」とあり、九町三段小で伊勢神宮領。「神鳳鈔」の史料的性格からみて鎌倉初期には成立していたと思われるが、神戸としての史料はこの一点のみである。だが建久三年(一一九二)八月日の伊勢神宮神領注文写(神宮雑書)には文治元年(一一八五)の官省符により向笠郷内に新封戸が置かれたとあり、あるいは篠原神戸はこの時に成立したとも考えられるが不明。文安四年(一四四七)七月一七日には篠原の住人である僧俗一三人が摂津国勝尾寺(現大阪府箕面市)に巡礼に訪れ(「請雨法勤行日記」勝尾寺文書)、請雨の風流踊を半時ほど寺僧と共に踊ったという。
篠原村
しのわらむら
[現在地名]佐原市篠原
利根川右岸を本村とし、左岸を新田とする。東西に銚子道が通る。現在「しのはら」とも称される。北に面した香取海の用益をめぐって本村西の佐原村、東の津宮村とともに元和(一六一五―二四)以前から根郷三ヵ村と称して連携を保ち、新田の開発を展開したと伝える。延文三年(一三五八)五月一日の香取九ヵ村注文(香取文書、以下中世の記述では断りのない限り同文書)に「追野内しの原 井土庭 さわら」とみえ、古くは追野村に含まれた。応安七年(一三七四)の海夫注文に「志の原津けつさわ知行分」とみえる。至徳三年(一三八六)六月日書写の香取社年中神事目録には一〇月六日の瞻男社神事料田のうちに「シノハラ」の三反がみえ、中務某の後継者が負担することになっていたが、差当り中村三郎左衛門が負担している。
篠原村
しのはらむら
[現在地名]挟間町篠原
阿鉢村の北、大分川右岸に位置し、西は同川を挟んで擽木村(現庄内町)。年月日未詳の阿南庄松富名半分新田畠実検帳案(大友文書)に「しのわらの二郎大郎分」などとみえる。長禄二年(一四五八)一二月二七日の阿南庄松富名田畠坪付并納銭諸公事帳案(甲斐守文書)に「篠原分」とみえ、田地と畠地があり、銭のほか節季木・炭・タニシ・鮎などの公事があった。文禄二年(一五九三)六月二六日の肝入二郎左衛門尉旧領覚書(同文書)には「池の上しのはら五十貫文」とみえる。
篠原村
しのばらむら
[現在地名]竜王町篠原
富竹新田の南にある。中世の篠原郷の遺称地。慶長六年(一六〇一)の篠原村検地帳(中巨摩郡志)によると反別田四〇町二反余・畑三六町一反余、ほかに永荒田二町三反余・畑一〇町余、屋敷二千七四八坪・屋敷数二七、免許の向玉庵二五〇坪。慶長古高帳では「志の原」とあり、高一千三二石余、ほかに八幡宮(現八幡神社)領五石余。宝暦六年(一七五六)版の三郡村高帳では高一千四五七石余。
篠原村
しのはらむら
[現在地名]大塔村大字篠原
舟ノ川流域の最奥の村。西熊野街道沿いの宇井村から東へ約一四キロ、大峰山脈の懐にある。標高約六〇〇メートル。「大和志」に「篠原一名川瀬」と記す。旧名は川瀬(川迫とも)。舟ノ川四郷、篠原・船川中峯・惣谷・中井傍示の交易の中心であった。舟の川村中峯方西村家記録(信称寺文書)に、
<資料は省略されています>
とあり、舟ノ川筋最古の村であるという。舟川郷のうち。慶長郷帳では舟野川三〇・一七六石のうちに含まれ、幕府領。
篠原村
しのはらむら
[現在地名]春野町豊岡
気田村の北東、南西流してきた杉川が気田川に合流する直前で大きく蛇行する部分の左岸にある。気田村金川集落の上流側の杉川を挟んで対岸に当たる。天正一六年(一五八八)二月二五日の某請取状(渡辺文書)に「しのわら」とみえ、「夏□兵」から篠原の「□んしやう」に茶一梱を請取ったことが報告されている。慶長四年(一五九九)の検地では南西の平木村と合せて検地帳(春野町役場蔵)が作成され、寛永二年(一六二五)・慶安元年(一六四八)の当村八王子社の棟札に「平木村之内篠原」とあるように、当初は平木村に属していたと思われる。江戸初期から幕府領。前掲慶長四年の検地帳によれば、田一町一反余・畠屋敷九反余、名請人八名。
篠原村
しのはらむら
[現在地名]南国市篠原
香長平野中央部にある。「土佐州郡志」は「在府城東、其東限大
、西限大津上村、南限明見大
、北限小籠、縦十一町余横十一町許」「有大路、自坂折山至船岡山」と記す。長岡台地の南端部とその南の三角洲低湿地が当村に属する。「和名抄」所載の古代の篠原郷は当地を中心とする地域に比定され、北部に野中廃寺がある。長宗我部地検帳では、当村域は大
郷地検帳(天正一六年)に含まれて記載される。
寛永地検帳(「南路志」所引)によれば地高七七一石余。元禄地払帳によると総地高八三六石余、うち本田高七七四石余・新田高六二石余。
篠原村
ささはらむら
[現在地名]豊田市篠原町
伊保川上流の篠原橋北東に位置し、山間の永沢寺から大沢川が流れて伊保川に合流する。二〇メートルの標高差をもつ篠原・黒笹断層は、篠原から田籾を経て黒笹(現西加茂郡三好町)へと北東から南西に延び、猿投・境川断層と平行して走る。条里制の遺構と思われる五反田の小字名が残る。中世では、高橋庄の佐々原郷に比定されており、貞治三年(一三六四)の猿投神社の上葺勧進帳(猿投神社文書)に「佐々原郷」と記す。
天正二〇年(一五九二)の「□州高橋郡篠原村御検地帳」の写(明治大学刑事博物館蔵)によると、田四四町三反余・畑六町二反余とある。
篠原村
しのはらむら
[現在地名]杵築市大内
草場村の北方、山間の丘陵地や低地に散在する村。小倉藩元和人畜改帳では国東郡安岐郷に属し、高一四六石余、家数一七・人数二七(うち本百姓四・名子三)、牛三とある。正保郷帳では安岐郷に属し、田方七六石余・畑方二二石余。元禄郷帳では高九八石余。山間地のため小さい溜池を多く造成し、水田化が進んだ。当村の小狭間地区は大分郡の挟間から移住したと伝え、賀来様という祠を祀り、毎年代表が大分郡賀来神社(現大分市)に参拝する。山神社は永和三年(一三七七)に勧請したもので、妙見宮・社日様を合祀。
篠原村
しのはらむら
[現在地名]加古川市加古川町篠原町
寺家町の北に位置する。永正一二年(一五一五)八月日と、天文三年(一五三四)八月日の鶴林寺寺料田惣目録(鶴林寺文書)によれば寄進散田のうちに、浦上則宗寄進田三反の在所として「篠原村徳丸名内」が記される。慶長国絵図に村名がみえる。正保郷帳によれば田方一六九石余・畑方一三石余。天保郷帳では高二二四石余。天保七年(一八三六)長束木綿問屋の株仲間として姫路藩より鑑札を交付された三五軒のうちに当村の菅野貴八郎と利助がみえ(「長束仕法木綿鑑札渡控帳」穂積家文書)、貴八郎は天保一一年より弘化三年(一八四六)までの六年間に木綿三八万反余を集荷している(「長束御趣法控」同文書)。
篠原村
ささはらむら
[現在地名]宇土市笹原町
東は下新開村、西は網津村、南は城塚村に接し、東・南・北は平坦で西は山林、北は緑川が流れる。村の中央に梅崎、東に井樋内、北東に上割・潟開、南東に塘上などの字地がみえる(郡村誌)。慶長国絵図に村名がみえ、近世は松山手永に属した。正保郷帳では田方五六九石二斗余で「水損所」とあり、畠方は一二四石七斗余。「国誌」に「潟村山口村辺田村等小村アリ」とある。
篠原村
しのはらむら
[現在地名]葛飾区四つ木三―五丁目・立石二丁目・同五丁目
四つ木村の北に位置し、西は堀切村、北は宝木塚村。元禄郷帳に村名がみえ、高一五六石余。「風土記稿」によれば家数二五。鎮守は稲荷社(現篠原稲荷社)、寺院は新義真言宗慈眼院(現真言宗豊山派)。亀有村と当村間の古上水堀二八町余では享保(一七一六―三六)以降、舟の舳先につけた綱を人が土手から引く引舟が行われた。当村は船二艘を所持していた。寛政六年(一七九四)古河古松軒の著した「四神地名録」の当村の項に「さて此近郷は菊を第一とし、杜若・あやめ・花菖蒲、いろいろの草花かぎりもなき事にて、花園をめぐることく目をよろこばせし事也」とあり、当村一帯の花卉栽培の盛んな様子が記されている。
篠原村
しのはらむら
[現在地名]和知町字篠原
南流する上和知川が由良川に合流する手前の西岸に位置する。東北方向の仏主村に至る道がある。上和知川の岸に耕地が広がり、西には五〇〇メートルの山がそびえ、東斜面に人家が散在する。村の南部で仏主村に至る道から由良川右岸をさかのぼり桑田郡(現北桑田郡美山町)に通ずる道を分岐する。東は上和知川を越えて大迫村、南は市場村、西は大倉村、北は下乙見村。
篠原村
ささわらむら
[現在地名]矢部町小笹
東は山出村、南は小野尻村・稲生原村に接する。笹原とも書く。村内を笹原川が蛇行しながら流れる。慶長国絵図に村名がみえる。矢部手永に属したが正徳四年(一七一四)から一時期中島手永に移り、のち旧に復した。文政九年(一八二六)の矢部手永略手鑑によれば高一八一石五斗余、田畝五町四反五畝余・畑畝四町四反余、竈数一九・男四二・女四八、牛二六・馬三九。
篠原村
しのはらむら
旧丹羽郡東条の中世村落。現在地は不明。弘安五年(一二八二)七月の千世氏荘坪付注進状案(醍醐寺文書)に
<資料は省略されています>
とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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