朝日日本歴史人物事典 「奥寺八左衛門」の解説
奥寺八左衛門
生年:寛永3.8(1626)
江戸前期の治水家。陸奥国(青森県)津軽郡奥寺村に生まれた。名は定恒,初め市之丞と称した。八左衛門は通称。父の右馬丞則定は浪人であったが,慶長5(1600)年岩崎一揆の際に活躍し,禄250石で盛岡(南部)藩の家臣となる。寛文5(1665)年,八左衛門は和賀郡村崎野の藩営新田の開発に着手,同9年松前騒動の際の功により松前藩主から開田資金3000両を借り入れ,また盛岡藩の許可を得て近村の農民のほかに囚人を労働力として動員,秋田藩阿仁銅山の鉱山師2人を招聘して,北上川の支流和賀川から用水堰2本を通し,延宝7(1679)年完成。元禄6(1693)年の新田検地では6891石余を打ち出し,その地域は和賀郡二子通8カ村,黒沢尻通2カ村の10カ村に達し,奥寺新田と称された。新田には完成後,工事に加わった農民,囚人が自作農として入植した。八左衛門は50石の加増を受け,のち神明社に祀られた。<参考文献>『奥寺八左衛門新田開発事蹟』(『近世地方経済史料』7巻),『盛岡藩雑書』,『南部藩参考諸家系図』
(細井計)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報