津軽郡(読み)つがるぐん

日本歴史地名大系 「津軽郡」の解説

津軽郡
つがるぐん

青森県の西半部をさす津軽という地名の文献上の初見は「日本書紀」斉明天皇元年七月一一日条の「津刈の蝦夷」であり、津軽郡の初見史料は同書同四年四月条の「淳代・津軽、二郡の郡領」である。この「郡」は古代の国郡制下の正格の郡ではなく、むしろこの地の蝦夷えみしの一族長の支配圏を国郡制下の郡に準じてよんだものと思われる。その後も津軽郡という行政区画名は古代を通じてみられず、中世においても、例えば「津軽三郡」とか「津軽平賀郡」のように「津軽」は広域地名として用いられた(ただし津軽地方のことについて「郡内事」という表現で言及する例はある)。なお古代・中世を通じて、津軽・津刈のほか都加留・つかろ・通賀路・東日流つがるなどの表記法も用いられているが、やはり「津軽」という表記法が最も用例も多く、正格のものであったらしい。

天文年間(一五三二―五五)北畠氏によって作成されたとされる津軽郡中名字には「東日流六郡」として奥法おきのり郡・うま郡・江流末えるま郡・田舎いなか郡・平賀ひらか郡・鼻和はなわ郡を掲げ、そのほかに「東卒都浜あつまのそとのはま」と「北浜」の地名をあげ、これらの六郡二浜に属する地名を書上げている。

津軽郡
つがるぐん

明治二年(一八六九)から同一四年までの渡島国の郡。明治二年八月一五日に設置され、「ツカルツ」の訓が付されている(公文録)近世松前藩松前(福山)城下を含み、松浦武四郎が「海岸ウノククリ石」より西を「此処松前郡 又福山郡とすへけれ共、福山の名何時頃より起りしかしらす。(中略)松前ハ城下になり通用と成しに、十余里の郡名にセバ又煩し」、津軽の名は「昔より津軽地之渡海之地にしも有之(中略)今郡名となし残し置度ぞ覚ゆ」との提案による(「郡名之儀ニ付奉申上候条」松浦家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報