日本歴史地名大系 「奥山庄」の解説
奥山庄
おくやまのしよう
現
「吾妻鏡」文治二年(一一八六)三月一二日条に載る乃貢未済庄々注文には「殿下御領奥山庄」とあり、摂関家領であった。建長五年(一二五三)一〇月二一日の近衛家所領目録(近衛家文書)に近衛家が本家として一定の得分を収取する所領のうちに「高陽院領内越後国奥山庄」とみえ、領家は近衛基良であった。高陽院領とは鳥羽院后藤原泰子(高陽院)が四条宮(後冷泉院后藤原寛子)領を父藤原忠実から譲られたことに由来し、久寿二年(一一五五)高陽院の没後近衛家に伝えられた所領である。康永四年(一三四五)六月七日の足利直義裁許状案(山形大学所蔵中条家文書)によれば、近衛前関白家雑掌は、奥山庄中条地頭三浦和田茂助が領家年貢八〇余貫を建武四年(一三三七)以来抑留したと訴えている。一方、開発領主に関しては、桓武平氏系図(尊卑分脈)に平維茂の孫貞兼を「奥山平大夫」、その従兄弟繁家を「奥山三郎」と注記し、彼らは同じ
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報