奥山庄(読み)おくやまのしよう

日本歴史地名大系 「奥山庄」の解説

奥山庄
おくやまのしよう

中条なかじよう町・黒川くろかわ村の大部分と、加治川かじかわ村、岩船郡荒川あらかわ町・関川せきかわ村の一部を含む広大な庄園。庄名は荒川の支流おんな川の奥にそびえる奥山付近から開発が始まったゆえといわれる。庄の中心は胎内たいない川扇状地とその下流沖積平野。南は現加治川村さかい付近で加地かじ庄に、北はほぼ現中条韋駄天いだてん山・関川鍬江沢くわえざわの線で荒河あらかわ保に接し、東は山、西は日本海に面する。

「吾妻鏡」文治二年(一一八六)三月一二日条に載る乃貢未済庄々注文には「殿下御領奥山庄」とあり、摂関家領であった。建長五年(一二五三)一〇月二一日の近衛家所領目録(近衛家文書)に近衛家が本家として一定の得分を収取する所領のうちに「高陽院領内越後国奥山庄」とみえ、領家は近衛基良であった。高陽院領とは鳥羽院后藤原泰子(高陽院)が四条宮(後冷泉院后藤原寛子)領を父藤原忠実から譲られたことに由来し、久寿二年(一一五五)高陽院の没後近衛家に伝えられた所領である。康永四年(一三四五)六月七日の足利直義裁許状案(山形大学所蔵中条家文書)によれば、近衛前関白家雑掌は、奥山庄中条地頭三浦和田茂助が領家年貢八〇余貫を建武四年(一三三七)以来抑留したと訴えている。一方、開発領主に関しては、桓武平氏系図(尊卑分脈)に平維茂の孫貞兼を「奥山平大夫」、その従兄弟繁家を「奥山三郎」と注記し、彼らは同じ揚北あがきたの庄名「加地」「豊田」の注記を付す者に比べて二―三代早く、かつ従兄弟が「奥山」の称を同じくすることから、その祖父維茂の関与を推測させる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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