奥浦村(読み)おくうらむら

日本歴史地名大系 「奥浦村」の解説

奥浦村
おくうらむら

[現在地名]福江市奥浦町・平蔵町ひらぞうちよう戸岐町とぎちよう

福江村六方むかた村の北、福江島の北東部に位置し、北はうら瀬戸に臨んで深い入江に恵まれる。じよう岳・ひら山・ささ岳などの山嶺がある。一六世紀からキリシタンの地として知られるが、江戸時代初期にはキリスト教禁令により村民すべてが離散したとされる。江戸時代は福江藩領福江掛に属し、北西の戸岐郷、東の平蔵郷を含む場合もあった。慶長一九年(一六一四)唐船による貿易を長崎のみに定められたことで奥浦の唐船とうせん(現岐宿町)での自由貿易が禁じられており(公譜別録拾遺・五島近古年代記)、海外貿易の拠点の一つであったことがうかがえる。寛永一四年(一六三七)の福江領崎山領寺水帳(五島編年史)では奥浦村に栄林えいりん(栄林寺)があり、寺領八石余。寛永年間福江藩の命でおもに中国地方からの移住が推進されたという。移住者には山林を付し、塩および木炭を上納させた。また造船修理所を開設して船大工を集住させ、その跡地が大工町だいくまちの字名であるという。


奥浦村
おくうらむら

[現在地名]須崎市うらうち東分ひがしぶんうらうち西分にしぶん

浦ノ内村の西、浦ノ内湾の奥にあり、「土佐州郡志」には奥浦之内おくうらのうち村とみえ、小村として横浪よこなみ村・戸波へわ浦・西谷にしだに大浦おおうら村・古江ふるえ五坊ごぼう村・鳴無おとなし村などを記す。中世浦内うらのうち郷に含まれ、天正一七年(一五八九)の浦内郷地検帳にみえる横浪・戸波浦・大浦・借屋かりや馬地うまじ切畑きりはた中浦なかのうら菅谷すげだに佐川内さかうちの九小村が村域に比定され、国延くにのぶ名など三七の名があったことがわかる。現在光森みつもり国定くにさだなどの名字や一楽いちらなどの地名があるのは、この名に関連すると思われる。検地面積九七町二反余、ヤシキ一二八筆と推定され、同年の浦内郷塩浜地検帳によれば塩浜一六浜があった。


奥浦村
おくうらむら

[現在地名]牛窓町長浜ながはま

錦海きんかい湾の奥に位置し、北は小津おづ村、西は上山田かみやまだ(現邑久町)。応安七年(一三七四)一二月日の弘法寺免田畠注文(弘法寺文書)にみえる鹿忍かしの庄「邑久浦」は当地をさすか。以後本蓮寺文書の室町時代の寄進状や売券に「おくの浦」「邑久浦」の地名が散見する。「奥浦」とみえるのは、文安四年(一四四七)二月一日の二郎三郎売券が最初で、鹿忍庄内「奥浦重光」(文明元年一〇月八日吉末売券)、「奥浦半田谷口」(文明二年一二月六日吉末売券)、「奥浦小島本」(永禄三年一二月一九日石原宗太太郎・日厳連署寄進状)などとみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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