大学事典 「学費無償化」の解説
学費無償化
がくひむしょうか
大学の学費無償化の政策は,国際連合の「経済的,社会的及び文化的権利に関する国際規約(社会権規約(国際連合),A規約)」13条2項c「高等教育は,すべての適当な方法により,特に,無償教育の漸進的な導入により,能力に応じ,すべての者に対して等に機会が与えられるものとすること」にもとづく。日本政府は1979年の同規約の批准以来,上記cの「特に,無償教育の漸進的な導入により」という文言については,国連からの勧告にもかかわらず留保を続けていたが,2012年9月11日に留保の撤回を国連事務総長に通告した。
こうした大学の学費ないし授業料無償化の無償化の背景には,1998年に採択されたユネスコの「21世紀に向けての高等教育世界宣言」でもうたわれているように,サービス業を中心とした知識基盤社会における,高等教育への「公的なアクセス」に対する欲求の増大があるだろう。2014年の時点ではフランス,ポーランド,チェコ,スロヴァキア,ハンガリー,ルクセンブルグ,ギリシア,スウェーデン,デンマーク,ノルウェー,フィンランド,アイルランド,アルゼンチン,チリ,ブラジル,スリランカ,エジプトなどの大学の授業料が無償であり,それ以外の国でもおおむね10万円前後である。日本,韓国,アメリカ合衆国などの高額な授業料は例外的な範疇に属する。
しかしながら,大学の無償化を知識基盤社会との対応だけから展望することは二重の意味でまちがっている。まずなにより,製造業を中心とするフォーディズム体制の飽和にともなって,1970年代以後の資本の蓄積は,金融が主導する非物質的な労働に準拠するようになった。知識基盤社会の出現もそうした資本の蓄積体制の変容の結果であり,そこでは大学もサービス業として経済的な単位に組み込まれる。たとえば,今日の監視カメラは,われわれの非物質的な身振りやイメージを捕獲し,資本に転換する装置である(おそらくそれはサービス業でもあるのだろう)。同様に大学も,われわれが表現する認識や情動を資本に転換する捕獲装置となる。そのことは金融資本の支配の強度にほぼ比例するかたちで,高額な授業料が徴収されていることからもあきらかだろう。
そして第2に,大学そのものは,知識基盤社会のみならず,いかなる社会的ないし経済的なロジックともなじまない。社会や経済は交換によって成り立つ。交換とは,なにかを失ってなにかを得ることである。だが,教員が大学で語るとき,みずからの認識や情動を失うわけではない。学生も同様である。大学に授業料が課されるならば,それは「擬制商品」(カール・ポランニー)をつくりだしているに過ぎない。大学での認識や情動は摩滅しないし,商品のように売買することもできない。多くの大学論で,ヨーロッパ中世の学生の「ときは去りぬ/されどわれはなにごともなさざりき」という詩句が繰り返し喚起されるのも偶然ではないだろう。交換のロジックに拘束される社会や経済のただなかで,大学は無為の共同性として立ち現れるのであり,その営為は無償であるほかない性質を帯びる。
今日,先進諸国では大学の進学率は50%を超える。問わなければならないのは,交換のロジックとは無縁の共同性に対するわれわれの欲望である。その意味で,大学と学校とは区別されなければならない。学校は社会に組み込まれている。学校で教授されることは,社会にとって有用なことである。それはアテネのアカデメイア以来変わらない。プラトンにとってよく生きることとは,ポリスのために生きることだった。それに対して,12世紀のヨーロッパで発生した大学は,都市住民にとってはなかば反社会的な存在であり,当時の社会に有用な知識を伝授する神学や法律の専門学校とは緊張をはらんだ関係にあった。
今日の大学は,こうした中世の大学を想起しつつ構想された19世紀のベルリン大学を祖型としている。1970年代以後,われわれの大学への欲望が亢進し続けているとすれば,賭けられているのは,もはや社会的でもなければ経済的でもない,そしておそらく垂直的な交換のロジックを体現する国家にも拘束されないような大学における生のイメージの肯定である。国際連合の社会権規約の無償化の条項もその表現の一つだろう。もちろん反動はあるだろうが,21世紀になって学費無償化の名のもとで頻発する大規模な大学ストライキは,なによりわれわれの大学への欲望の深さと広がりを示している。
著者: 白石嘉治
参考文献: アラン・ド・リベラ著,阿部一智・永野潤訳『中世知識人の肖像』新評論,1994.
参考文献: 細川孝編著『「無償教育の漸進的導入」と大学界改革』晃洋書房,2014.
出典 平凡社「大学事典」大学事典について 情報