目次 成立過程と構成国 成立過程 国連憲章の改正 構成国 機関と意思決定過程 機関 機関の構成 意思決定過程 財政 任務と活動 平和と安全の維持 福祉増進の機能 地球環境問題 日本と国連 第2次世界大戦の勃発によって事実上解体した国際連盟 に代わって,戦後新たに設立された国際平和機構。国連,UNと略称。本部所在地ニューヨーク。世界平和の実現と諸国民の福祉増進を主たる目的とする一般的世界機構という点では,戦前の国際連盟と本質的に異ならない。しかし,成立の事情も,構造や機能においても,二つの国際機構には少なからぬ相違点がみられる。また今日の国際連合は,設立の当初と比べてかなりの変容を遂げている点も見逃せない。国際連合とは別に,福祉面での国際協力の特定分野を担当する世界的機構が多く存在し,そのおもなものは,国際連合と協定を結んで,国連の〈専門機関specialized agency〉となっている。国際連合を中心として,その外郭団体である専門機関が集まって形成される集団は,〈国連ファミリーUNFamily〉または〈国連システムUN System〉と呼ばれる。
成立過程と構成国 成立過程 国際連盟(以下連盟と略記)が第1次大戦後パリの講和会議において戦後処理の一環として設立されたのに対して,国際連合(以下国連と略記)の創設の歴史は第2次大戦中にさかのぼる。1942年1月,日独伊の枢軸国と交戦した米,英,ソを中心とする26ヵ国が,アメリカの首都ワシントンで〈連合国共同宣言〉に署名し,枢軸国に対する戦争遂行の決意を新たにし,団結を誓った。今日国連を意味する〈United Nations〉という言葉は,第2次大戦中の一方の交戦者である反枢軸国陣営,すなわち〈連合国〉を指す名称として,このとき初めて用いられたのである。しかし連合国宣言当時の戦況は,枢軸国側が優勢で,連合国には戦後の平和機構の問題を取り上げる余裕はなかった。連合国の側でこの点についての最初の意思表示がなされたのは,戦況が連合国側に有利に展開するにいたった43年の10月,米,英,ソ,中の4ヵ国によってなされた〈モスクワ宣言〉においてである。この〈一般的安全保障に関するモスクワ4ヵ国宣言〉の中で,〈戦後できるだけ早い機会に,すべての平和愛好国の主権平等の原則にもとづく,国際平和と安全の維持のための一般的国際機構を設立する必要〉が認められた。この宣言にもとづいて,44年の8月から9月にかけ,米,英,ソ,中の四大国代表会議がアメリカの首都ワシントンのダンバートン・オークス Dumbarton Oaksで開かれ,ここで一般的国際機構の具体案が審議されて,その結果は,〈ダンバートン・オークス提案 〉として公表された。この提案は,のちの国連憲章の原案であり,大国間に合意をみた第2次大戦後の平和機構の青写真であった。さらに,45年2月に米,英,ソ3国の首脳会談がソ連のクリミア半島のヤルタで開かれ,ここでダンバートン・オークス会談では未解決のまま残された若干の問題,すなわち安全保障理事会における投票手続や,加盟資格の問題などについて大国間の意見が調整され,同年4月25日から,連合国全体の国際会議がサンフランシスコ で開催され,新機構の憲章の起草が行われた。サンフランシスコ会議 に招請された国は,それまでに前記の連合国宣言に署名していた46ヵ国,および会議の途中で出席を認められた4ヵ国(ウクライナ,白ロシア(現ベラルーシ),アルゼンチン,およびデンマーク)であった。50ヵ国の参加を得て憲章の起草を行ったサンフランシスコ会議は,2ヵ月にわたる審議ののち,6月25日に国連憲章を採択し,翌日署名を行った。憲章は10月24日,所定の手続を経て発効し,ここに国連は正式に発足したのである。国連憲章が,戦争のたけなわのときに,交戦当事者の一方である連合国の側のみによって審議され採択されたことは,新機構の性格に影響を与えずにはおかなかった。憲章中に見られる若干の戦時色を帯びた規定(たとえば〈旧敵国条項〉)や第2次大戦中に指導的役割を果たした大国に優越的な地位(たとえば安全保障理事会の常任理事国の拒否権)が認められているのは,こうした憲章成立事情の反映とみられよう。
国連憲章の改正 国連憲章The Charter ofthe United Nationsでは,規定の改正のための二つの方法を定めている。一つは通常の修正手続で,修正案が総会の3分の2の多数で採択されたのち,安全保障理事会の5常任理事国を含む全加盟国の3分の2による批准を経て発効する方法である(108条)。もう一つは,国連憲章の再検討のための国連加盟国の会議を開き,そこで憲章の規定の全般的見直しを行い,上記と同じ手続で修正を行うものである(109条)。この規定は,サンフランシスコ会議において,ダンバートン・オークス提案に対する修正案が大国の反対によって容れられなかったことに対する,中小国の不満をなだめるために挿入されたものである。前者の通常の手続による憲章の修正は,これまで3度行われた(安全保障理事会の議席拡大に関する1965年8月31日発効の修正,経済社会理事会の議席増大に関する,68年6月12日,および71年12月20日にそれぞれ発効の2度の修正)。これに対し,憲章再検討の会議は今日まで開かれたことはない。
構成国 今日の国連は,連盟と比べて,量的にも質的にも,文字どおり世界機構としての普遍的性格をそなえるにいたっている。連盟では,加盟国が欧米諸国にかたより,しかも大国の参加を欠いた点も弱体化の一因であった。これに対し,国連では,今日すべての大国を含め,世界の異なる政治・経済体制や,文化圏に属する諸国を包含していることは注目に値する。もっとも,国連も,初めから加盟国の普遍性が得られたわけではない。発足の当初は,むしろ連盟よりも閉鎖的であり,加盟手続もいっそう複雑であった。連盟では,第1次大戦の戦勝国32ヵ国のほかに,中立国13ヵ国も原加盟国に加わったのであるが,国連では,その成立事情を反映して,原加盟国は第2次大戦中の連合国に限られ,それ以外の国は,めんどうな加盟手続をふまねばならなかった。加盟の条件としては,〈平和愛好国であり,憲章に掲げる義務を受諾し,義務履行の意思と能力がある国〉でなければならず,それを認定する手続は,安全保障理事会の推薦にもとづき総会が決定することになっており(4条),安全保障理事会の決議には,常任理事国に拒否権が与えられている。このため,国連の発足後,最初の10年間は東西間の冷戦が加盟問題に反映して,多くの国が加盟への門を閉ざされた。すなわち米ソ両陣営は,互いに相手の側が国連での勢力を増やすことを恐れて牽制しあい,相手側の陣営にくみする国の加入を阻止したのである。このため最初の10年間に加盟できた国は,アフガニスタン をはじめわずか9ヵ国にすぎなかった。しかし加盟問題の行詰りは,冷戦の緩和とともに打開され,1955年に東西間の妥協の結果16ヵ国の一括加盟が実現し,日本もその翌年の12月18日に加盟が正式に認められた。その後は,アジア,アフリカ,米州カリブ地域の新興諸国の加盟が相次ぎ,今日,国連加盟国は185ヵ国(1997年現在)と,発足当初のほぼ3倍半となっている。現在の未加盟国は,スイスを除けば,若干の〈極小国家〉にとどまる。中国は,1949年の革命成立後も,台湾の国民政府が国連での代表権を維持し,中国本土は国連から締め出されてきたが,第26回国連総会は中華人民共和国政府の代表権交替を認め,問題は決着をみた。加盟国のなかには人口や領土,資源の乏しい,いわゆる〈極小国家〉と呼ばれる国々があり,これらの国の取扱いが今後の課題である。次に,加盟国の国連からの脱退については,国連憲章には規定がない。しかし,これは脱退を禁止する趣旨ではなく,サンフランシスコ会議でも,このことが了解されたのである。今日まで,加盟国が国連から脱退する意思を表明した唯一のケースとして,インドネシアが1965年1月に脱退を通告したが,その翌年の9月には復帰した。このため国連はこれを脱退の事例として扱っていない。一方,除名については,憲章に規定がある(6条)。南アフリカ共和国 やイスラエルに対して,制裁措置の一環として除名を求める主張もみられたが,適用例はない。
機関と意思決定過程 機関 国連の主要機関は,総会,安全保障理事会 ,経済社会理事会 ,信託統治理事会 ,国際司法裁判所 ,および事務局の六つであり,連盟の総会,理事会,事務局の3主要機関よりも増えている。主要機関のほかに,とくに国連総会や経済社会理事会のもとで設置された多くの補助機関が存在し,国連は極めて複雑な仕組みになっている。主要機関のうち,全加盟国で構成する総会は,国連の中心的機関であり,その任務は,国連のすべての事項に及ぶため,三つの理事会と権限が競合する関係にある。このうち経済・社会・文化面での国際協力を担当する経済社会理事会と,信託統治制度の監督を行う信託統治理事会は,憲章上〈総会の権威の下に〉任務を行うとされており(60条,87条),この両者に対しては総会が優位に立つのに対し,安全保障理事会との関係は,むしろ逆で,平和と安全の維持の分野では,大国を中心とする安全保障理事会に第一次的な責任が認められ(24条),総会の権限は制限されている。たとえば,総会が平和と安全の維持に関する問題を討議する場合,行動を必要とするものは,討議の前または後に安全保障理事会に付託しなければならないこと(11条2項),また後者が現に取り上げている問題につき,総会は勧告することはできないこと(12条)などである。もっとも,国連の実践面では,1950年に総会が採択した〈平和のための結集〉決議に見られるように,平和維持に関する総会の権限強化の企ても,しばしばなされている。安全保障理事会は常時開催できる体制にあるのに対し(28条),総会の会期は,毎年9月の第3火曜日から約3ヵ月間開かれる年次通常会期があり,このほか特別会期,緊急特別総会が随時招集される(20条)。経済社会理事会は年2回の定例会期(1月と5月)と特別会期が開催される。信託統治理事会は,適用地域の独立により,任務を終了した。
機関の構成 アジア,アフリカ,米州地域の新興国の加盟により,安全保障理事会と経済社会理事会の議席を増員する必要が生じ,1965年の憲章改正により,安全保障理事会は当初11であった理事国(米,ソ,英,仏,中の5常任理事国と,総会から任期2年で選出される6非常任理事国で構成)が15に増員され,非常任理事国の数は10となった。また経済社会理事国は当初の18から68年の改正により27に,さらに73年の再度の改正で54に議席が増員された。一方,これとは逆に信託統治理事会の構成国の数は,信託統治地域の相次ぐ独立にともないしだいに減少し,最後の信託統治地域であったパラオの独立(1994)により,その歴史的使命を終えた。以上の政治的機関と異なり,国際司法裁判所と事務局の二つは,構成員が国家代表ではなく,個人としての資格で選ばれ,その意味で中立的な性格をもつ機関である。国際司法裁判所は,他の五つの主要機関と異なり,オランダのハーグに置かれ,15人の裁判官からなる。裁判官は9年の任期で,安全保障理事会と総会での同時選挙により,個人的資格と地理的配分の考慮にもとづいて選挙される。一方,事務局は,事務総長と,その他の事務職員により構成する。このうち国連事務総長は,安全保障理事会の勧告にもとづいて総会が選任するが,他の職員は事務総長により直接採用される。採用にあたっては,職員の個人的資質と,なるべく広い地理的配分を考慮しなければならない。職員の総数は約1万5000人,うちニューヨーク本部の職員は約5200人を数える。事務局の職員は,いわゆる国際公務員 として国連にのみ責任を負い,特定の国家からの干渉をうけることなく,中立的な立場をとることを要求される。事務総長の権限は,首席行政官として事務運営のすべてに及ぶほか,政治的影響力が大きく,平和維持の機能面でも,憲章上一定の権限が認められ,主要機関からの授権にもとづいて,または憲章上固有の権限により,重要な任務の執行を行う。なお歴代事務総長は,初代T.H.リー (ノルウェー),2代目D.ハマーショルド (スウェーデン),3代目ウー・タント (ビルマ),4代目ワルトハイム(オーストリア),5代目J.P.デ・クエヤル(ペルー),6代目ブートロス・ガリ(エジプト),7代目コフィー・アナン(ガーナ)であり,いずれも大国以外の出身者である。
意思決定過程 国連の各機関における表決制度は,原則として全会一致主義によった連盟と異なり,多数決の原則を採用している。経済社会,信託統治の両理事会は出席し投票する理事国の過半数で,また総会では,重要事項については出席し投票する国の3分の2の多数で,その他の事項については過半数で決議が採択される。一方,安全保障理事会では,決議の成立は9理事国の賛成を必要とするが,ただし,手続事項を除いては,その中に常任理事国の賛成が含まれることが要件とされ,いわゆる五大国に拒否権 が認められている。もっとも,総会や安全保障理事会の決議は,以上の憲章上の表決手続によるよりも,いわゆるコンセンサス方式 によってなされることが多い。すなわち,利害の衝突する問題について決議の採択を強行すれば,対立を激化することになり,これを避けるために,投票によらず,決議案についてあらかじめ非公式の協議を行い,対立点の歩みよりを最大限にはかったのち,大筋において意見の一致が得られれば,表決によらず,決議案に対して反対意見が表明されなかったとして決議成立の効果を生ぜしめる方式をいう。コンセンサス方式により,安全保障理事会における東西間の対立や,総会における南北間の対決を回避することが可能となった。一方,国際司法裁判所の判決や勧告的意見の決定は,出席した裁判官の過半数で行われ,可否同数のときは,裁判長が決定投票権を行使する。各機関の決議の効力は,それぞれの場合について異なる。総会の決議は,加盟国や他の機関,または他の国際機構に対して向けられるとき,勧告としての効力をもつのみである。しかし,総会の内部の運営に関する事項や予算の承認等の場合,決議は加盟国や他の機関に対して拘束力をもつ。安全保障理事会の決議は,加盟国や他の国連機関に対する単なる勧告の場合と,拘束力をもつ場合とがある。そのいずれの場合かは,決議の文言,決議採択の際の議論,憲章の関連規定などを考慮して,決議ごとに判断しなければならない。経済社会理事会と信託統治理事会の決議は,内部運営に関するものを除き,単なる勧告にとどまる。国際司法裁判所の判決は,紛争当事国を拘束する。しかし国連機関からの法律問題に関する諮問に対してなされる〈勧告的意見〉には,拘束力がない。
財政 国連の予算案は,事務総長が総会に提出し,総会により審議,採択される。国連の予算の大部分は,加盟国に割り当てられた分担率に従い,加盟国からの分担金で賄われている。各加盟国の分担率は,国民総生産,1人当り国民所得などを考慮して,上限25%(アメリカが該当),下限0.01%の間で3年ごとに決められる。後述のように日本の分担率は15.65%であり,アメリカ(25%)に次ぐ高率である。分担率の下限の0.01%が適用される国は約70ヵ国にのぼる。通常経費(職員の俸給や会議運営費など)に対して,国連開発計画 (UNDP)など大部分の活動経費は,各国からの自発的拠出金により賄われる。
任務と活動 国連の目的は国際社会の平和と諸国民の福祉増進の二つに大別できるが,その実現のために,国連は種々の手段を講じ,活動を行っている。平和と福祉の両面で国連システムがどのような機能を果たしているかを以下にみよう。
平和と安全の維持 (1)国際紛争の平和的解決 連盟では,平和を支える3本の柱として,紛争の平和的解決,安全保障,軍備縮小があげられた。同様に国連もこれらの方式を基本的に踏襲している。連盟規約は,国際紛争解決のために戦争に訴えることを一定の範囲で禁止したが,国連憲章では,戦争の違法化をさらに進めて,自衛のためにする場合を除き,国家が他国に武力を行使することを一般に禁止している(2条4項)。そして加盟国が国家間の紛争を,平和的手段によって解決しなければならない一般的な義務を課している(2条3項)。しかし,実際に国連憲章が定めた国連機関による紛争の平和的解決の制度は,不完全なものであって,この点,連盟規約の下での紛争解決制度に比べて本質的な改善はみられない。憲章が予定しているのは,政治機関である安全保障理事会と総会による広い意味での調停手続(6章10条,14条)と,国際司法裁判所による裁判の制度(14章)であるが,前者の二つの政治機関による紛争解決は,紛争の審査や和解の斡旋,解決案の勧告を含む一連の手続をふんで解決をはかるもので,いずれもその決定に拘束力がなく,当事者の和解を促進する努力にすぎず,紛争を直接に解決する効果をもつものではない。国連事務総長のインフォーマル な調停活動も同様である。これに対して,国際司法裁判所に紛争を付託する場合は,その判決は当事者を拘束し,当事者はこれに服従する義務を負うが,しかし,紛争を裁判にかけることは紛争当事者の一般的な義務となっておらず,当事者が事前または事後に合意しなければ,裁判は行われないことになる。したがって,国連の下では,紛争の解決は結局当事者の意思にかかっており,紛争が未解決のまま残される余地が制度上残されていることに注意しなければならない。国連の実践においても,安全保障理事会や総会は,国家間の紛争の政治的解決をはかる会議外交の場として一定の役割を果たしているが,調停機関として十分に機能しているとはいい難く,また国際司法裁判所には,これまで約100件の紛争が付託されたが,今日も国家間の紛争を裁判にかけることを敬遠する一般的な傾向(とくに大国の態度)は変らない。
(2)集団安全保障 国際紛争が武力紛争に発展する可能性は残されており,このような事態に対して,連盟や国連がとったのは,〈集団安全保障の制度〉であった。この制度は,国際機構の加盟国が互いに領土の不可侵を約束し,この約束に反して武力を行使する国に対しては,他の加盟国が一致して被害国を助け,加害国に対して外交的・経済的な圧力あるいは軍事力による制裁を加え,諸国の結集した力によって違法な武力行使の防止あるいは抑圧をはかろうとするものであり,国連では,憲章第7章において,平和の破壊,侵略行為が発生した場合,安全保障理事会の認定にもとづいて,武力行使を防止し,抑圧するために,加盟国の協力によって経済的・軍事的措置をとることを定めている(39,41,42条)。憲章の規定が連盟規約と比べてとくに注目されるのは,(a)強制措置を開始する時期や,加盟国がとるべき措置を決定する権限を安全保障理事会に与え,加盟国はこれに服従する義務があるものとして,制裁の発動を加盟国の判断にゆだねた連盟と異なり,安全保障理事会の中央集権的な統制により制裁の効果を発揮できるようにしたこと,(b)経済制裁その他の非軍事的な措置とともに,陸・海・空軍による軍事的強制措置を重視し,それに使用するために加盟国が安全保障理事会に提供する兵力の種類や規模,準備などについても規定したこと(43条),つまり軍事制裁の組織化,制度化を企てた点である。しかし,このような憲章の仕組みは,憲章が予定していたかたちでは機能していない。とくに冷戦時代には大国間の対立によって,安全保障理事会の決議の採択は容易でなく,大国や大国と特別な利害で結ばれた国に対しては,侵略者と認定したり,強制措置の適用を決議することは極めて困難であった。また軍事的措置にそなえて加盟国が提供する兵力や便益の内容を定めた取決めを結ぶ企ては,早くも放棄された。もっとも,1950年の朝鮮戦争の際には,安全保障理事会は第7章の下での平和の破壊と認定し,〈武力攻撃を撃退するために必要な援助〉を韓国に与えることを勧告する決議を採択し,これにもとづいてアメリカを中心とする〈国連軍 〉が編制された。このように,安全保障理事会で軍事強制行動に関する決議が採択されたのは,当時ソビエトが,中国代表権問題にからんで,安全保障理事会をボイコットする戦術をとっていた偶然によるものであった。そこで同年11月に国連総会が採択した〈平和のための結集〉決議は,大国の拒否権に妨げられて機能できない安全保障理事会に代わって,拒否権のない総会に安全保障の機能を移すことにより,強制行動の決議採択を容易にすることを意図したものであった。
しかし,集団安全保障を現実に適用することの困難さは,たんに拒否権の回避という手続面での操作によって片づくものでないことは,その後の実績が示している。国連加盟国間の武力行使の事例は枚挙にいとまがないが,国連が第7章の下での強制措置に踏み切ることはまれであった。冷戦体制下,80年代までに行われた経済制裁 のわずかな例として,南ローデシアや南アフリカ共和国に対する措置があげられるが,これらはむしろ一国の人種政策に向けられた特殊な事例にすぎない。強制措置の発動の困難さは,加盟国が自国の利益を国際社会の利益よりも優先させるため,諸国の協力を得ることが難しいという事情がある。それに,国家間の力の偏在の著しい今日の国際社会においては,大国に対する経済制裁の発動は効果をあげにくく,まして軍事制裁ともなれば,大戦争に発展する危険を覚悟しなければならない。朝鮮戦争はこのことを実証したのである。軍事的強制措置が効果を発揮できるためには,制裁に加わる側の圧倒的な軍事力の優位が確保されねばならない。しかし,このような基礎的条件をつくりだすための,各国の軍備の削減は,国連の諸機関およびジュネーブ軍縮委員会 での長期にわたる軍縮交渉にもかかわらず,実質的な成果がいまだに得られないのが実情である。今日までのわずかな成果としては,包括的核実験禁止条約,核不拡散条約 ,非核地帯の設置,および生物兵器,環境破壊兵器などに関する諸条約であり,軍備の削減,撤廃の交渉はいまだに出発点にあるといってよい。
東西間の冷戦が終結し,大国間の協調体制により安全保障理事会の機能が回復すると,国連の集団安全保障への期待が高まった。そのなかで,湾岸危機に際して国連がとった対応は,安全保障理事会の下での平和強制機能の復活を印象づけた。1990年8月のイラクによるクウェート侵攻とともに,アメリカを中心とする諸国はいち早くサウジアラビア とその周辺海域に多国籍軍を派遣したが,安全保障理事会は,イラクに対する第7章の下での平和破壊の認定,経済制裁に関する一連の決議をやつぎばやに採択し,さらに決議の実効性を確保するため,湾岸地域に展開する多国籍軍に対して,武力行使を含む〈あらゆる必要な手段〉をとる権限を委ねる決議を採択した。しかし,多国籍軍による〈砂漠の嵐〉作戦と呼ばれる軍事行動は,朝鮮戦争のときと同様,国連のコントロールを離れて遂行されたのである。これは,強制行動への参加が国連の指揮の下に行われることへの諸国の拒否反応によるものであり,その後の国連の平和強制機能においては,いずれも湾岸戦争型の変則的な方式が踏襲されている。
(3)平和維持活動 朝鮮動乱の終結を境として,国連においては,平和破壊に対して強制力ないし制裁を加えることにより平和を回復する集団安全保障よりも,武力紛争の悪化を防ぎ,また武力衝突を平和的に収拾するための諸方策に力点を置く傾向が強まっている。そのような方式として,1956年のスエズ動乱の際に国連が現地に派遣した国連緊急軍をはじめ,その後の一連の国連軍活動のように,交戦者の停戦,撤退という武力衝突の収拾を容易ならしめる手段として,平和維持軍や軍事監視団を現地に派遣し,その現地駐留によって停戦や兵力の撤退を促進し戦闘の再開を防止する,いわゆる〈平和維持活動 〉の方式が重視され,活用されるようになっている。平和維持活動に従事する軍隊は,集団安全保障のための軍隊と異なり,紛争当事者に対して中立の立場をとり,戦闘を目的とした強制軍としての性格をもたない点に特色がある。
福祉増進の機能 経済的・社会的分野での国際協力に目を向けると,国連は諸国民の福祉増進と進歩の実現のためにさまざまな活動を行っており,この分野での国連の活動は,資金面でも,実績の面でも,平和維持のそれに劣らぬ重要なものとなっている。その中でも注目されるのは,(1)植民地住民の自決権擁護,(2)人権の国際的保障,(3)経済開発・援助の諸活動であろう。ところで,これらの分野は,これまで一般に〈国内問題〉として一国の国内政策にゆだねられ,国連憲章でも,国内問題の不介入が基本原則の一つとして掲げられていた(2条7項)。しかし,この原則にもかかわらず,国連はしだいにこの分野の諸問題を積極的に取り上げて,解決にのりだしている。
(1)植民地問題 国連は発足当初予想もされなかった積極さをもって,この課題と取り組んでいる。国連憲章は植民地を〈信託統治地域〉と〈非自治地域〉の二つのカテゴリーに分け,それぞれ異なる制度の下に置いた。このうち前者は,(a)連盟時代の委任統治地域,(b)敵国から分離された地域,(c)加盟国が自発的に信託統治 制度の下に置く地域で,戦後11の地域がこの特殊な制度の下に置かれた。信託統治地域の施政国は,住民の福祉増進と漸進的自治,独立の達成に努力する国際的義務を負わされ,その実施につき国連の監督に服するものとされた(12章)。一方,それ以外の植民地,すなわち〈非自治地域 〉の統治については,施政国が国連に対して負わされる義務は,わずかに国連事務総長に対する統治状況の情報提供にとどまった。これは,植民地問題は一般に国内問題であるとの憲章起草者の考えを反映したものといえよう。ところが,第2次大戦後,民族自決主義運動の進展にともない,アジア,アフリカやカリブ地域の植民地が相次いで独立し,国連に加盟すると,国連の場で植民地主義の是非が論ぜられるようになり,1960年の総会は,歴史的な〈植民地独立付与宣言〉を採択した。この決議は,信託統治地域,非自治地域を問わず,あらゆる形の植民地制度をできるだけ速やかに,かつ無条件で終わらせることを宣言して,人民の自決権を承認し,独立達成に必要な措置をとるよう要請したものである。この宣言に刺激されて信託統治地域はすべて独立を達成し,非自治地域もかなりの部分が独立,残された地域に対しても上記の宣言履行のための特別委員会(25ヵ国で構成)を通じ,独立を促進している。
(2)人権保障 個人の人権擁護の問題も,従来〈国内問題〉とされてきたが,国連憲章では〈人種,性,言語又は宗教による差別なく,すべての者のために人権及び基本的自由を尊重するように助長奨励することについて,国際協力を達成すること〉を目的の一つに掲げており,国連は発足以来,その具体的内容を確定し,規範を形成する仕事に取り組んできた。その成果として,1948年に〈世界人権宣言 〉が総会で採択され,さらに65年,宣言の内容を条約化した〈市民的及び政治的権利に関する国際規約〉と〈経済的,社会的及び文化的権利に関する国際規約〉の二つが総会で採択され,76年に発効した(国際人権規約 )。このほか,人権の特殊な分野では,〈集団殺害罪の防止及び処罰に関する条約〉,〈人種差別撤廃条約 〉,〈女子差別撤廃条約 〉,〈子どもの権利条約 〉,〈難民の地位に関する条約〉など多くの条約が成立しており,また国連の専門機関の一つである国際労働機関(ILO )では,労働条件の改善のための条約や勧告を数多く採択し,人権の社会的面での国際基準化がはかられている。また国連は,南アフリカにおける人種差別(アパルトヘイト )問題など,人権侵害に関するさまざまな事件を取り上げて,その解決のために積極的に取り組んできており,また難民 の救済などの現地活動を行っている。
(3)経済開発・援助 国連が1960~70年代以降,大きな課題として対応を迫られているものに,〈南北問題 〉がある。戦後,アジア,アフリカ,米州地域の植民地住民が自決権を行使して独立を達成したが,これら新興独立国のかかえる共通の問題は,独立はしたものの,経済的自立がともなわず,植民地時代の経済体制から脱却できないまま先進工業国との経済格差がますます広がるという厳しい現実であった。こうした南北間の富の偏在の是正のため,今や国連で多数派になった南の新興国は,いわゆる〈77ヵ国グループ〉を結成して,国連に強い措置を求めるようになった。その要請にこたえるべく,国連は1960年代を〈国連開発の10年〉として,南北問題の解決に取り組むことになった。この努力はさらに70年代を〈第2次開発の10年〉,80年代を〈第3次開発の10年〉,90年代を〈第4次開発の10年〉として引き継がれている。その結果,国連システムを構成する専門機関と協力して〈国連開発計画 (UNDP)〉を発足させ,発展途上国への開発援助にのりだし,また国連貿易開発会議 (UNCTAD (アンクタツド))を国連の機関として創設し,途上国の輸出拡大を促進するための方策を検討している。同様に1974年の第6回特別総会が採択した〈新国際経済秩序の樹立に関する宣言〉や,〈諸国家の経済的権利義務憲章〉は,先進工業国を中心とした既成の国際経済秩序に代わって,発展途上国の利益を中心とした新国際経済秩序 を樹立して,国際社会に実質的平等を実現することをうたっている。さらに,新興国の経済的自立をめざす原則を述べたものとして,1962年の国連総会が採択した〈天然の富と資源に対する恒久主権〉に関する決議をあげることができる。これは,すべての国が自国内の天然資源を自由に処分できる権利をもつことを承認し,これまで外国企業の支配下にあった自国の天然資源を国有化する権利を認めたものである。82年に第3次国連海洋法会議が採択し,94年に発効をみた海洋法 条約にも,上記の宣言の海洋資源への適用とみられる新しい規定が盛られている。この新海洋法条約では,排他的経済水域や群島水域,深海海底などの新しい制度が設けられたが,これらは,新興途上国のための海洋資源の開発と利益の分配の主張を制度化したものであった。とくに深海海底制度は,技術の進歩にともない深海底の開発が可能になったことから,一部の先進国による独占的開発を排して,深海底の資源を人類全体の利益のために開発しようとするものである。そこで,深海底の区域と資源は〈人類の共同財産〉であって,資源開発の利益は,発展途上国の利益と必要をとくに考慮して国家間に衡平に分配されるものとし,このために国際海底機構を設けてこの区域での活動を規制し,開発は,国家や私企業とともにこの機構の一機関である公社(エンタープライズ )を通じて海底機構が直接に行うという画期的な制度となっている。新海洋法秩序の下で南北問題の解決をはかる動きとして,成行きが注目される。
地球環境問題 国連が地球環境問題に積極的に取り組みはじめたのは,1972年にストックホルム で開催の〈国連人間環境会議 〉からである。この会議が採択した〈人間環境宣言〉は,各国の環境政策に大きな影響をあたえた。同会議が設置した〈国連環境計画 (UNEP)〉(事務局はケニアのナイロビ)は,国連諸機関の環境関連活動の総合的調整を図り,地球環境の監視や環境条約の立案にあたる国連機関となった。しかしその後20年の努力にもかかわらず,地球環境は一向に改善をみず,国連に一層の取組みが要請されるようになった。
こうした世界的世論にこたえて,1992年にブラジルのリオ・デ・ジャネイロで〈地球サミット〉(国連環境開発会議 (UNCED))が開催された。地球サミットは,国連が世界各国や産業団体,市民団体などを招集して催した大規模な国際会議であり,世界から約180ヵ国の代表が参加した。そこで採択された〈環境と開発に関するリオ宣言〉には,〈持続可能な開発〉の原則をはじめとする世界の今後の環境保全のあり方を示す諸原則が盛られた。このほか,21世紀に向けた人類の行動計画である〈アジェンダ21 〉が採択され,気候変動枠組み条約 (地球温暖化防止条約 ),および生物の多様性に関する条約(生物多様性条約)が採択された。地球サミットのあと,国連が経済社会理事会の下に設置した〈持続可能な開発委員会(CSD)〉は,リオ諸条約の実施方法を検討し,持続可能な開発にたずさわる各国政府その他の団体に指針を提示する活動を行っている。また,地球サミットから5年目にあたり開催された国連環境開発特別総会では,リオ宣言やアジェンダ21などUNCEDの成果の実施状況の再検討を行うなど,地球サミットの成果のフォローアップ がなされている。これらの会議では,経済成長の重要性を強調して先進国の側に対応を迫る発展途上国と,途上国側にも犠牲を求める先進国との対立が目だち,また先進国内部でもEUと他の先進国の対立が表面化しはじめ,合意形成の困難さが浮彫りされている。
国連システムの下で,これまで170を超える環境関係の諸条約が締結され,その実施計画の策定のための国際会議が開かれている。主なものをあげれば,オゾン層 の保護に関するウィーン条約(1985締結)およびモントリオール議定書 (1987締結),地球の温暖化防止のための気候変動枠組み条約(1992締結)の締約国会議(1997年の地球温暖化防止京都会議),砂漠化防止条約 (1996発効)の締約国会議,生物の多様性に関する条約(1992締結)の締約国会議などがある。このように,国連は地球環境保全の問題に総合的に対処する場として,その重要性を増しつつある。
日本と国連 日本は,1956年12月18日に国連の80番目の加盟国となった。加盟申請は,すでにサンフランシスコ講和条約 成立の直後から行われていたが,東西間の冷戦の影響で,その実現が遅れたのである。国連加盟は,日本にとって国際社会の檜舞台への復帰を意味する象徴的な出来事であった。そしてその後の国連に対する日本の基本的態度は,いわゆる〈国連中心主義〉という外交政策として表明された。岸信介首相は1957年2月,国会での施政方針演説で,〈わが国は,国際連合を中心として世界平和と繁栄に貢献することを,外交の基本方針とする〉と述べ,この基本原則は,〈自由主義諸国との協調〉および〈アジアの一員としての立場の堅持〉という原則とならんで,日本の外交三原則の一つとなった。
加盟以来,日本は,国連内での地位の向上に努め,安全保障理事会,経済社会理事会,国際司法裁判所の主要機関をはじめ,多くの国連機関のメンバーとなり,国連財政に対する寄与も,日本は,アメリカに次いで2番目に多く(1997年現在の日本の国連経費の分担率は,15.65%),経済分野での日本の役割と地位は,しだいに重みを加えている。しかし,総じていえば,日本の国連での態度は,受身的ないしは控えめなものであったといわねばならない。日本の国連外交が積極性を欠いた理由としては,第1に,満州事変とそれに続く国際連盟からの脱退という戦前の経験に対する反省,および自信の喪失があり,第2に,戦後の日本外交は,日米安全保障条約を主軸とする二国間外交に重点を置き,国連外交ないし会議外交は,二国間外交を補充する二次的な役割しか与えられなかったこと,第3に,国連をとりまく現実政治は,東西間の冷戦に加えて,先進国対発展途上国間の〈南北問題〉という新たな対立関係が顕在化することにより複雑さを増し,先進国でありながら,アジアの一国であるという二重人格的性格のゆえに,日本の立場は困難な選択を迫られ,いきおい日本の国連外交を〈ひ弱な〉ものたらしめていることが指摘されよう。たとえば,南アフリカ共和国の人種差別問題やパレスティナ問題 ,新国際経済秩序の構築問題などについて,日本は西側先進国寄りの立場をとらざるをえず,このような態度に対してアジア・アフリカ諸国からの批判をうける場面もみられた。
一方,日本の国連での地位の向上につれ,より積極的な役割を望む声が高まりつつあり,これに対して,日本は経済面のみならず,政治的な分野でも貢献が期待されるようになった。たとえば,国連の〈平和維持活動(PKO)〉に対する日本の寄与はこれまで財政面に限られてきたが,1990年の湾岸危機に際して,平和維持の分野での日本の貢献のあり方が問題となり,それを契機に日本は1992年に国連平和維持活動 協力法を成立させ,憲法上の制約はあるものの,これまでいくつかの国連PKOや人道援助活動に自衛隊を参加させている。さらに,環境問題や天然資源の開発などの人類共通の関心事項についても,大局的見地からの寄与が望まれ,この面で日本が南北間の橋渡し的な役割を果たすことが期待される。 執筆者:香西 茂