宇多郡(読み)うだぐん

日本歴史地名大系 「宇多郡」の解説

宇多郡
うだぐん

浮田・宇太・宇田・雅楽とも書く。浜通り北端に位置し、東は太平洋に面し、南は行方なめかた郡、西は信夫しのぶ郡、伊具いぐ(現宮城県)、北は亘理わたり(現同県)に接する。北から順に砂田すなだ川・立田たつた川・宇多川が東流する。阿武隈高地に北から順に鹿狼かろう(四三〇・一メートル)羽黒はぐろ(三四五・八メートル)天明てんみよう(四八八メートル)霊山りようぜん(八二三・五メートル)がある。現在の相馬郡新地しんち町・相馬市と相馬郡鹿島かしま町の一部(浮田・北右田・南右田)にあたる。

〔古代〕

和名抄」は「宇太」と訓を付す。「国造本紀」に浮田国造がみえる。「日本書紀」持統天皇三年(六八九)正月三日条に「陸奥国のうきたみ郡」とあり、当郡説と山形県置賜おきたま郡のこととする説がある。養老二年(七一八)五月二日、陸奥国の石城いわき標葉しねは・行方・宇太・曰理わたりおよび常陸国の菊多きくたの六郡で石城国に昇格するが(続日本紀)、一〇年足らずで陸奥国に復帰する。これが郡名の初見。神護景雲元年(七六七)七月一九日には「宇多郡人外正六位上勲十等吉弥侯部石麻呂」が上毛野陸奥公を賜姓されている(同書)。本県人の賜姓第一号で、おそらく宇多郡領であろう。同三年三月一三日には「宇多郡人外正六位下吉弥侯部文知」が上毛野陸奥公を賜姓されている(同書)。文知は石麻呂の一族で郡領を分け合っているのであろう。「三代実録」貞観八年(八六六)正月二〇日条に、常陸国鹿島神宮の苗裔神が宇多郡に七座あると記され、現相馬市石上いしがみ鹿島前かしままえ・同新沼にいぬま字鹿島前・同馬場野ばばの字鹿島前・同尾浜おばま船越ふなこしの鹿島神社はその遺跡とされる(相馬市史)。「延喜式」神名帳に名神大社として子負嶺こひみね神社が記され、現新地町こまみね大作の子眉嶺おおさくのこびみね神社がその遺跡である。宇多郡衙は現相馬市中野なかの黒木田くろきだ遺跡(中野廃寺)に比定され、礎石建物跡・掘立柱建物跡のほか軒丸瓦・軒平瓦・平瓦多数が発見されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報