宇宿村
うすきむら
[現在地名]鹿児島市宇宿町・宇宿一―五丁目・紫原二―七丁目・西紫原町・日之出町・新栄町・桜ヶ丘一―八丁目など
郡元村の南に位置し、東は海、南・西は丘陵を隔て田上村・谷山郷塩屋村。脇田川流域を中心とする。「鹿児島県地誌」はウシクと読みを付す。文永九年(一二七二)の谷山郡内神田并寺田注文(山田文書)に「うすく」とみえ、当地には国領六反余・妙見田三反余・寺田三反余があった。建治二年(一二七六)九月一三日の山田忠真譲状(同文書)には「うすくのむら」とみえ、谷山郡地頭山田忠真(島津忠実)は三郎直久に当地を譲った。応永六年(一三九九)二月二九日の島津元久寄進状(旧記雑録)によると、守護島津元久は「谷山郡宇宿村」の水田八町を鹿児島福昌寺に寄進している。
宇宿村
うしくむら
須野村の南東方、赤木名村の東に位置し、集落は海に臨む。北部の海沿いに大瀬・土盛の集落があり、ほか山城・大道などの地名が残る。笠利間切赤木名方のうちで、ウスィクなどともいう。嘉靖八年(一五二九)一二月二九日の琉球辞令書(元禄九年写、和真一郎氏所蔵文書)に「かさりまきりのうすく」とみえ、当地の「大やこ」(大屋子)にもとの首里大屋子の子供である「ちやくもい」が任じられている。もとの大屋子は一五一〇年代に同役職にあったことが考えられ、奄美で知られる最古のものである。なお「ちやくもい」は、「ち」が小さい(つまり子供)、「もい」が敬称であるとすれば、残る「やく」は大屋子のことと思われる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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