谿山郡
たにやまぐん
薩摩半島の中央東部に位置した。明治二九年(一八九六)の郡区画改正により鹿児島郡に編入され消滅した。現在の鹿児島市南半部にあたる。中世は谷山郡と記された。近世の郡域は東は海に面し、北は鹿児島郡、西は日置郡・阿多郡・河辺郡、南は給黎郡に接した。
〔古代・中世〕
天平八年(七三六)の薩摩国正税帳(正倉院文書)にみえる隼人十一郡の一つ。「和名抄」東急本国郡部は「多仁也末」、名博本はタニヤマと読む。「和名抄」高山寺本によると谷山郷(伊勢本・東急本などでは谷上郷)・久佐郷からなり、「大日本地名辞書」「日本地理志料」「鹿児島県史」などは永田川流域に一郷、和田川流域に一郷があったとする。現鹿児島市下福元町弓場城跡から一〇世紀頃の蔵骨器と墨書土器が出土している。
平安末期阿多四郎宣澄の所領であったが、宣澄が平家にくみして没落すると、建久三年(一一九二)一〇月二二日、谷山郡などの地頭職に島津忠久が補任された(「関東御教書」島津家文書)。薩摩国建久図田帳によると「谷山郡二百町」は島津庄寄郡で、没官御領・地頭島津忠久とあり、府領社(大宰府領社)一八町と公領一八二町からなっていた。府領社は現伊佐智佐神社(鹿児島市)にあたる。郡司職は建仁三年(一二〇三)一二月二五日の関東下文によって薩摩平氏一族信忠が開発領主として安堵され(元徳二年一一月二五日「谷山覚心代教信重申状」山田文書)、以後忠光・忠能・資忠(覚信)・忠隆(隆信)と相伝され(「平氏系図」指宿文書など)、南北朝期に至った。一方地頭職は、文永四年(一二六七)一二月三日、忠久の子忠時が娘の南女房に譲ったが(「島津道仏譲状」旧記雑録)、同九年四月一七日、忠時は庶長子忠継(山田氏祖)の子忠実(忠真)に譲り直した(「島津道仏譲状」山田文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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