宗方村(読み)むなかたむら

日本歴史地名大系 「宗方村」の解説

宗方村
むなかたむら

[現在地名]諫早市宗方町

長野ながの村の東に位置する。宗方町・長野町・川内かわち町に分布する古代の条里遺構小野おの条里とよばれ、正方位に約三六の坪数が確認され、数詞坪地名は二の坪にのつぼ・三の坪・四の坪・五の坪・八の坪が残っているが、坪並は平行式とも千鳥式ともとれて定めがたい。この遺構より低地ひがし新替・西新替などの中世の干拓と考えられる地名がある。近世は諫早郷に属し、肥前佐賀藩親類同格の諫早家領。慶長国絵図に「宇木ノ内 宗方」とみえ正保国絵図では宗方村として高二〇五石余。寛延三年(一七五〇)の諫早一揆では幸兵衛が獄門、詫平・貞右衛門が佐賀送りに処された(諫早日記)


宗方村
むなかたむら

[現在地名]山鹿市宗方・宗方通むなかたどおり川端かわばた町・中央通ちゆうおうどおり大橋通おおはしどおりしん

菊池川(湯瀬川)が南部から西部を流れ、北西部で吉田よしだ川を合流、東と北は湯町、南は南島みなみじま村・志々岐しじき村と接する。「覚兼日記」天正一二年(一五八四)九月一五日条に

<資料は省略されています>

とあり、島津勢の陣所となっていた山鹿城内に周辺の女・童が入込んだために同城の麓にあった当村に番衆が置かれている。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳によると田一五町五反四畝余・畠屋敷一六町一反三畝余・屋敷筆数一八、分米三〇五石五斗余。


宗方村
むながたむら

[現在地名]大三島町宗方

現大三島町の西南端に位置する。東北は山を負い、西南は海に面し、西側が湾入している。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)越智郡の項に「宗方村 日損所、柴山有」とみえ、村高は一〇七石一斗四升である。享保末年の「越智島旧記」によると、田畑面積は、田五町七反、畑三一町五反、ほかに新田畑として、田四町一反七畝一八歩、畑二反五畝一二歩があり、新田開発の進展がみられる。家数は一一三軒、うち御水主定家数七軒、御百姓家七〇軒、無給家一六軒、隠居家一〇軒、人数は四八〇人である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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