宗貞国(読み)そう さだくに

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「宗貞国」の解説

宗貞国 そう-さだくに

1423-1495 室町時代武将
応永30年生まれ。宗盛国の子。対馬(つしま)(長崎県)の守護。1世紀にわたる宗氏惣領(そうりょう)家と仁位(にい)宗氏の対立を解消し,島内の支配と朝鮮通交統制権を確立した。少弐(しょうに)頼忠(のち政資(まさすけ))をたすけて大内氏をやぶり,一時大宰府(だざいふ)を回復した。明応4年(一説に3年)死去。73歳。通称彦七

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の宗貞国の言及

【厳原[町]】より

…町の中心をなす東岸の旧厳原町は県の出先機関が集中する対馬の中心地であり,博多港からフェリーが就航する。古代には対馬島の国府が置かれ,文明年間(1469‐87)宗貞国が,居城を上県郡峰町から移して以来金石城の城下町となり,近世まで府中または府内と呼ばれた。金石城跡近くには,宗氏歴代の霊をまつる万松院がある。…

【筑前国】より

…69年(文明1)になると東軍の策動によって北部九州の諸豪族が反大内勢力となり,九州から大内勢力を排除した。この結果,対馬にいた少弐頼忠は宗貞国とともに筑前を回復し,みずからは大宰府に入り,貞国に博多を守らせた。少弐氏は家臣への知行宛行・安堵,寺社への寄進,荘園の押領,博多の掌握を行ったが,当国支配の実質的な担い手は代官宗貞国とその被官であった。…

【対馬島】より

…旧国名。対州。長崎県北部の島。
【古代】
 西海道に属する下国(《延喜式》)。《古事記》には〈津島〉と見え,いわゆる大八洲の一つとされた。九州と朝鮮半島の中間に位置し,古くから壱岐島とともに大陸との交通の要衝として重視された。《魏志倭人伝》には,1000余戸あるが,地勢が険しくて良田がないため南北に交易して米を求めたとある。663年(天智2)の朝鮮半島白村江での敗戦後は国防の最前線となり,翌年に防人(さきもり),烽(とぶひ)が配備され,667年には金田(かなだ)城が築かれたが,のち1019年(寛仁3)の刀伊(とい)の入寇では大被害を受けた。…

※「宗貞国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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