宝島・小宝島(読み)たからじま・こだからじま

日本歴史地名大系 「宝島・小宝島」の解説

宝島・小宝島
たからじま・こだからじま

[現在地名]十島村宝島・小宝島

宝島はとから列島南部に位置する周囲約一四キロの火山性の島。面積七・一四平方キロ。最高峰は標高二九一・九メートルのイマキラ岳。北岸に前籠まえごもり港がある。北西および南東部の海岸は断崖北東悪石あくせき島、南西横当よこあて島、南東に奄美大島がある。宝島の北東約一五キロにある小宝島は隆起珊瑚礁に囲まれた周囲五キロ弱の島で、面積一平方キロ。温泉も湧出し、最高所は標高一〇二・七メートル。北東部に城之前じようのまえ港がある。

〔近世〕

河辺郡しち島のうち。鹿児島藩船奉行の管轄下、宝島に宝永(一七〇四―一一)頃に津口番所、寛政元年(一七八九)には異国船番所・異国船遠見番所が設置され(列朝制度)、派遣された在番は宝島・小宝島を管轄した。在番の指示の下で宝島郡司が浦役を兼ねながら島政にあたった。平田甚吉氏家系図(十島村誌)によれば、平田宗継の項に「名護屋御陣之時、七島中志之者申し合はせ、船を用意仕立てて高麗国に参向し陣中奉公」し、慶長一四年(一六〇九)島津氏の琉球侵攻の時には「樺山権左衛門殿平田太郎左衛門、大将にて兵船渡しの時、宗継案内者を勤め」たとある。宗継の子宗次の項に初めて「勤郡司役」とある。文政(一八一八―三〇)頃までは平田の本家が代々郡司を勤めたという(拾島状況録)。在番とは別に横目一人(のち二人)が一年交替で鹿児島城下から宝島に派遣され、島民中から選ばれた二人の横目(島横目)を指揮、治安維持にあたった(同書)。幕末―明治初年の宝島在番は貴島助太郎・松元次助(島津斉宣・斉興公史料)、大窪源之丞・矢野伊三次・中村源七(十島村文化財調査報告書)、能勢周蔵(拾島状況録)、同じく横目は吉村九郎・中村理兵衛、郡司は平田氏本家の宗次ら(平田甚吉氏家系図)、島横目は平田権之進が知られる(斉宣・斉興公史料)

元禄国絵図によれば、宝島は「とから島」、小宝島は「島子」とみえ、宝島の島回二里二〇町、横当島まで海上一三里、大島のうち「ふかいか浦」まで海上三五里。「大御支配次第帳」によれば、宝島でも享保一二年(一七二七)に検地を実施、検地竿次名寄帳二冊を作成したが現存しない。宝島は藤井本「要用集抄」によれば正徳三年(一七一三)頃の高三九五石余、用夫一一七、鹿児島から海路一〇四里。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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