宮原庄(読み)みやはらのしよう

日本歴史地名大系 「宮原庄」の解説

宮原庄
みやはらのしよう

有田川下流の北岸、かぶら坂から下る熊野街道に沿い、西は保田やすだ庄に接する。現宮原町辺りにあった荘園。荘名は「為房卿記」永保元年(一〇八一)九月二七日条にみえる。熊野参詣の途次、藤原為房はこの日「申剋、着有田郡勧学院宮原庄、宿土民宅」と記し、勧学院領荘園として設立されていたことがわかる。帰路一〇月一〇日にも宮原庄に着し、住人吉国が饗饌を設け為房は駑駘を与えている。建仁元年(一二〇一)一〇月後鳥羽上皇の熊野参詣に供奉した藤原定家は、蕪坂を登り、「タウ下王子・山口王子」を経て昼養所に入ったが、「宮原云々、過御所小家」と記している(「後鳥羽院熊野御幸記」同月九日条)


宮原庄
みやはらのしよう

現在の淀川区宮原付近にあった庄園。鎌倉時代には、この宮原の地域にいくつかの権門寺社の所領が入組んで存在したようである。承久二年(一二二〇)一二月一〇日の大善法寺祐清譲状(石清水文書)のなかに「宮原田参町」とみえ、弘安三年(一二八〇)一一月には、奈良西大寺が柴島くにじま・宮原北庄内の地四町八反余を買取って年貢三一石九斗余を収納したりしている(永仁六年西大寺田園目録)。その後、奈良の春日社・興福寺がこの地の住民を積極的に神人などに組織しつつ、急速に所領を拡大してきたものとみえ、南北朝内乱期に入る頃には、この付近一帯が春日社領宮原庄・興福寺領宮原北庄(宮原北保ともいう)としてあらわれる。宮原北庄に対し、宮原南庄が存在したことが、「師守記」貞和五年(一三四九)一二月五日条紙背の康永三年(一三四四)一月二九日付の文書などによってわかるが、南庄に関する史料はきわめて乏しく、その動向はほとんど判明しない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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