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永楽帝 えいらくていYong-le-di; Yung-lo-ti

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

永楽帝
えいらくてい
Yong-le-di; Yung-lo-ti

[生]至正20(1360)
[没]永楽22(1424)
中国,の第3代皇帝 (在位 1402~24) 。名は朱棣 (しゅてい) 。廟号は太宗,のち成祖。洪武帝の第4子。燕王として北平に封じられ,靖難の変を起して建文4 (02) 年に建文帝から帝位を奪った。

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デジタル大辞泉の解説

えいらく‐てい【永楽帝】

[1360~1424]中国、の第3代皇帝。在位1402~1424。太祖の第4子。名は朱棣(しゅてい)。靖難(せいなん)の変を起こして即位。諸王を抑え君主権を強化し、宦官(かんがん)を重用。のち南京(ナンキン)から北京(ペキン)に遷都。対外的には積極策をとり、他国からの朝貢も盛んだった。また、「永楽大典」「四書大全」などの編纂(へんさん)を命じた。太宗。成祖。

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百科事典マイペディアの解説

永楽帝【えいらくてい】

中国,明朝第3代の皇帝(在位1402年―1424年)。廟(びよう)号は太宗,のち成祖。洪武帝の第4子。燕王として北平(北京)にあり,建文帝(恵帝)の削藩策に対抗し1399年挙兵(靖難(せいなん)の変)。
→関連項目故宮冊封体制武当山北京方孝孺六部

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世界大百科事典 第2版の解説

えいらくてい【永楽帝 Yŏng lè dì】

1360‐1424
中国,明朝第3代の皇帝,在位1402‐24年。姓は朱,名は棣,廟号成祖,年号により永楽帝とよばれる。明朝の創業者たる太祖洪武帝の第4子で,21歳の時,北平(北京)に封ぜられ,燕王となってから頭角をあらわし,太祖のあとをついだ甥の建文帝から帝位を奪って(靖難の変)皇帝となった。即位後,国都を南京から北京へうつした。その22年にわたる治世は,はなばなしい対外積極政策で飾られ,中国史上もっとも活気にみちた時代であった。

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大辞林 第三版の解説

えいらくてい【永楽帝】

1360~1424) 中国、明の第三代皇帝(在位1402~1424)。名は棣たい。諡おくりなは文皇帝。廟号びようごうは太宗、のちに成祖。洪武帝の第四子。はじめ燕王えんおうに封ぜられた。洪武帝の死後、靖難せいなんの役で建文帝を倒して即位。北京を都とし、皇帝権の伸長に努め、モンゴルを攻め、また鄭和ていわを南方に派遣して諸国を従わせた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

永楽帝
えいらくてい
(1360―1424)

中国、明(みん)朝第3代の皇帝(在位1402~24)。姓は朱、名は棣(てい)。明朝の創業者である太祖洪武帝の第4子で、廟号(びょうごう)は太宗、嘉靖(かせい)帝のとき改めて成祖。永楽帝の名称は、治世が永楽の年号でよばれたことに基づく。21歳のとき北平(北京(ペキン))に封ぜられ、燕(えん)王となってから頭角を現し、太祖の後を継いだ甥(おい)の建文帝から位を奪って(靖難の変)帝位につき、国都を北京に移した。その22年にわたる治世は華々しい対外積極政策で飾られ、中国史上もっとも活気にあふれた時代であった。彼は中国史上最高の軍人帝王の評をもち、漢人の皇帝としてはただ1人、自ら大軍を率いて五度もモンゴリアを親征したほか、シベリア経営に乗り出し、黒竜江(アムール川)河口から苦夷(くい)(樺太(からふと))にまで領土を拡張し、チベットを臣属させ、安南にも兵を進め、交趾(こうし)布政司を設けて中国領土に編入した。西方についても、嘉峪関(かよくかん)付近でティームール帝国と接触し、朝鮮半島では李(り)氏の朝鮮王朝を服従させ、室町幕府の3代将軍足利義満(あしかがよしみつ)を日本国王に封じて、日本を朝貢国とするに至った。さらに南方諸国に対しては、鄭和(ていわ)の率いる大船団を七度も派遣し、東南アジアから、インド洋、ペルシア湾、紅海の沿岸、アフリカ東海岸の三十数か国と活発な貿易を行わせた。こうして15世紀初頭の東アジア世界には、直接の武力制圧、あるいは朝貢関係を通じて、明帝国を中心とする国際的秩序が成立し、永楽帝はその主宰者であったといえる。
 だが、対外政策に比べると、内政面での業績は見劣りがする。『永楽大典』などの大掛りな勅撰(ちょくせん)書の編纂(へんさん)が勅命によって行われたのが目だつ程度である。しかも、靖難の変後、建文帝側近の有力者とその一族に対して行った誅滅(ちゅうめつ)事件は、「永楽の瓜蔓抄(つるまくり)」として後世の非難を受け、また、簒奪(さんだつ)者の後ろめたさに起因する宦官(かんがん)の重用など、内政的には暗さの伴っているのは否定できない。要するに永楽帝は、太祖の育てた財力を利用して華々しい対外活動を繰り広げたのであるが、その生涯にふさわしく、1424年7月28日、モンゴリアへの第五次親征の帰途、楡木川(ゆぼくせん)(内モンゴル自治区多倫(ドロン)県の北西)の地で病没した。遺体は北京の北方40キロメートルにある天寿山麓(さんろく)(北京市昌平区)に葬られ、陵は長陵とよばれている。なお、その付近には永楽帝以下13人の皇帝たちの陵墓群があり、明十三陵として観光地となっている。[寺田隆信]
『寺田隆信著『永楽帝』(1966・人物往来社)』

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世界大百科事典内の永楽帝の言及

【永楽大典】より

…総合文献集としての性格も濃い。明の成祖(永楽帝)は即位まもなく,1403年(永楽1),解縉(かいしん)(1369‐1415),楊士奇ら文人たちを翰林に入れ,太古以来の全書籍から必要事項を網羅した大類書の作成を命じた。翌年完成した書物は《文献大成》と名づけられたが,帝の意にみたず,姚広孝をはじめさらに多くの学者と2000人以上の筆写人が動員され,1405年から08年冬まで増訂が行われた。…

【靖難の変】より

…内戦は4年にわたってくりひろげられたが,燕王が京師(南京)を攻略したことによって終了した。勝利をおさめた燕王は即位し,成祖永楽帝となった。建文帝は落城に際し,兵火のなかに没したが,悲運の皇帝への同情から,帝の生死については数々の風説が伝わっている。…

【明】より

…全国統一が一応完成するのは,71年の四川平定をまたねばならないが,華中から興って全国を統一したのは,明朝が史上最初である。
[洪武帝と永楽帝]
 ところで朱元璋は,明朝建設以前から紅巾軍の色彩を払拭して,儒教的な政治理念を採用し,漢民族の伝統的な王朝支配を実現したのであった。制度面においても,当初は元朝のそれを受けつぐ点が多かったが,まもなくこれに改変を加え,宋代以来の中央集権的な体制を,一段と強化整備した。…

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