寺方村(読み)てらかたむら

日本歴史地名大系 「寺方村」の解説

寺方村
てらかたむら

[現在地名]大田原市富池とみいけ

那須扇状地扇端部に位置し、集落池の御いけのご前とよばれる湧泉地近くにある。東は市野沢いちのさわ村、西は吉際よしぎわ村・舟山ふなやま村。たつ街道がほぼ南北に通る。寺形村とも記される。慶安郷帳に村名がみえ,畑高のみで四八一石余、大田原藩領。この高は天正一八年(一五九〇)大田原氏が豊臣秀吉から安堵された所領のうちにみえる「ふな山内」の高と同じで(「大田原藩領知覚書」伊藤安雄文書)、当初舟山村に含まれていたらしい。延宝三年(一六七五)藩士阿久津儀太夫に「舟山之内松原村」一貫二〇〇文の地が支給された(「定」阿久津モト文書)


寺方村
てらかたむら

[現在地名]八王子市西寺方町にしてらかたまち

北浅きたあさ川と山入やまいり川の合流地付近を中心に北浅川の南東岸、山入川の北岸にわたり、村の北西は川口かわぐち丘陵の高丸たかまる山まで、南西は恩方おんがた丘陵のだいの峰まで広がる。南はかわ村。古くは宝生ほうしよう寺があった寺方村を大幡おおはた(大畑村)と称したと伝え、小名大幡がその名残という(風土記稿)。田園簿に村名がみえ、田八石余・畑一四三石余で、ほかに紙舟役永二八五文、宝生寺領一〇石。元禄郷帳では高二一九石余。


寺方村
てらがたむら

[現在地名]四日市市寺方町

三滝みたき川の左岸、丘陵の裾に位置し、南は高角たかつの村と接する。「五鈴遺響」に「高角ト一邑ニシテ南北ニ別レリ、寺方ノ名義ハ高角山大日寺アリ、故ニ名ク」とある。江戸時代は津藩領。寛文九年(一六六九)村高のうち二五三・六九石を支封久居藩領とした。寛延(一七四八―五一)頃の当村は、津藩領(二六六・八八石)の戸数五五、人口二三七、牛六。久居藩領(二五六・六九石)の戸数四〇、人口一五二、牛一。寺は光徳こうとく(浄土真宗本願寺派)、神社は八幡がある(宗国史)

天明五年(一七八五)以降文政六年(一八二三)の間に一四回も旱魃にみまわれ、とりわけ出作百姓の困窮ははなはだしかった。


寺方村
てらかたむら

[現在地名]多摩市東寺方ひがしてらがた一丁目・同三丁目・東寺方・桜ヶ丘さくらがおか一丁目・同三―四丁目

関戸せきど村の西にあり、北は一ノ宮いちのみや村。村域はすべて平地で柚木ゆぎ領から当村を経て一ノ宮渡へ達する道が通る。田園簿に寺方村とみえ田一〇七石余・畑八四石余。幕府領五三石余・旗本山角領一三八石余。元禄七年(一六九四)から幕府領の一部が旗本浅井氏の知行所に、同一〇年から別の一部が旗本曾我氏の知行所になる(多摩市史)旧高旧領取調帳によれば浅井領二九石余・曾我領三三石余・山角領一四一石余、ほかに寿徳じゆとく寺領七石が記される。なお「風土記稿」で関戸村の小名として書かれている原関戸はらせきどは、寺方村の小名と考えられる(多摩市史)


寺方村
てらかたむら

[現在地名]横芝町寺方

曾根合そねあい村の西に位置する。元禄郷帳に坂田寺方村とみえ,高二三二石余。正徳三年(一七一三)にも同高で、反別三〇町五反余、年貢米三〇〇俵(三斗五升入)(横芝町史)。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数三〇、旗本永田領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

グレーゾーン解消制度

個々の企業が新事業を始める場合に、なんらかの規制に該当するかどうかを事前に確認できる制度。2014年(平成26)施行の産業競争力強化法に基づき導入された。企業ごとに事業所管省庁へ申請し、関係省庁と調整...

グレーゾーン解消制度の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android