竹之内村(読み)たけのうちむら

日本歴史地名大系 「竹之内村」の解説

竹之内村
たけのうちむら

[現在地名]市貝町竹内たけうち

見上みあげ村の東西に分れて村域があり、東は東竹内、西側は竹内西(竹内新田)とよばれた。あら川右岸の丘陵上に立地し、竹内西の南は塩田しおだ村。史料上は竹内村ともみえる。慶安郷帳には村名がみえ、田七〇石余・畑四五石余で幕府領寛文五年(一六六五)幕府領の村として検地を受け、同年の検地帳(関沢勇文書)が残る。


竹之内村
たけのうちむら

[現在地名]伊東市竹の内一―二丁目・たけだい音無町おとなしちよう

伊東平野にあって海に面しない村。松原まつばら村・和田わだ村・おか村に囲まれる。元禄郷帳では高一七八石余。領主の変遷は文化八年(一八一一)まで岡村に同じで、同年旗本鈴木領となり幕末に至る(韮山町史)。宝永七年(一七一〇)の家数二四・人数一二七(「小田原領村々諸事覚控帳」荻野家文書)伊東大川氾濫の対応をめぐって松原村と争い(宝暦八年「竹之内和田両村訴状写」玖須美区有文書など)、村内にある和田村出作地の温泉利用権をめぐって同村と争った(天保四年「出作地温泉出入嘆願書」和田村文書)。宝暦一〇年(一七六〇)には下流の松原村地内に出作して辰の新田を開いていたという。


竹之内村
たけのうちむら

[現在地名]大田原市富池とみいけ

南流するくま川左岸丘陵とその東の平坦地を占め、集落は丘陵麓にある。南は舟山ふなやま村、東は吉際よしぎわ村、北は木曾畑中きそはたなか(現黒磯市)竹野内たけのうち村とも記される。寛文四年(一六六四)の大田原藩領知目録に竹内村とある。大田原宿の大助郷を勤め、文化元年(一八〇四)頃の助郷高一〇石(「大田原宿宿方明細書上帳」大田原市教育委員会蔵)


竹之内村
たけのうちむら

[現在地名]塙町竹之内

塙村の東、久慈くじ川支流渡瀬わたらせ川下流域の丘陵に立地。竹内・竹野内とも書く。永禄一二年(一五六九)一一月三日の近津都々古別神社祭礼日記(金沢文書)に、「二番 代三拾文 竹之内」とみえ、八槻やつき(現棚倉町)近津ちかつ明神の祭礼の神役を勤めていた。江戸時代の領主の変遷は下渋井しもしぶい村と同じ。


竹之内村
たけのうちむら

[現在地名]豊橋市下条東げじようひがし

堀之内ほりのうち村の西に続く。東は白石しらいし新田。近世を通じて吉田藩領。慶長九年(一六〇四)検地では下条村のうち。享保一〇年(一七二五)二川宿助郷帳(橋良文庫蔵)によると、村高四四八石のうち助郷高四四八石で、二川ふたがわ宿まで一里一八町。


竹之内村
たけのうちむら

[現在地名]坂戸市竹之内

長岡ながおか村の南東にあり、東は堀込ほりごめ村。小田原衆所領役帳に玉縄衆左衛門大夫(北条綱成)の所領として「入西郡竹内・高麗郡塩屋分」一六貫四三四文がある。近世には入間いるま入西につさい領に属した(風土記稿)。田園簿では田四三石余・畑二六石余、旗本朝比奈領。


竹之内村
たけのうちむら

[現在地名]八尾町竹内たけのうち

なか村の西方室牧むろまき川左岸にある。正保郷帳に村名がみえるが、村高などは中村と合せて記される。元禄一一年(一六九八)郷村高辻帳では中村の川を隔てて二町ほど西にある枝村新田として上竹之内村とみえ、高一三石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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