寺沢堅高(読み)てらさわかたたか

改訂新版 世界大百科事典 「寺沢堅高」の意味・わかりやすい解説

寺沢堅高 (てらさわかたたか)
生没年:1609-47(慶長14-正保4)

江戸初期,肥前唐津藩12万石の2代藩主。兵庫頭。広高の次男。1633年(寛永10)襲封。37年島原の乱が起こると,唐津領の肥後天草4万石で天草の乱が起こり,参府中の堅高が帰国参陣する前に一揆軍は天草のほぼ半ばをじゅうりんして富岡城を大破し,2000余人は島原原城へ立てこもった。その責により天草を没収され,のち自殺して家は断絶した。
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関連語 中村

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「寺沢堅高」の解説

寺沢堅高 てらさわ-かたたか

1609-1647 江戸時代前期の大名
慶長14年生まれ。寺沢広高の次男。寛永4年肥前唐津(からつ)藩(佐賀県)藩主寺沢家2代となる。14年島原の乱がおこり天草の領民もくわわったため,その責任をとわれ,天草4万石を没収された。正保(しょうほ)4年11月18日自殺。39歳。跡継ぎがなく,寺沢家は断絶した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「寺沢堅高」の意味・わかりやすい解説

寺沢堅高
てらざわかたたか

[生]慶長13(1608)
[没]正保4(1647)
江戸時代初期の肥前唐津藩主。幼名,晴。兵庫頭 (ひょうごのかみ) 。幕府島原の乱平定の際,兵を率いて富岡城を救援したが,失策をとがめられ寛永 15 (1638) 年天草4万石を没収され,のち自殺し家は断絶となった。

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世界大百科事典(旧版)内の寺沢堅高の言及

【唐津藩】より

…肥前国(佐賀県)松浦郡唐津に藩庁を置いた譜代中藩。1593年(文禄2)朝鮮の役で改易された波多信時に代わって豊臣大名寺沢広高が配置されたことに始まる。石高は6万3000石。98年(慶長3)朝鮮の役における軍功によって筑前怡土(いと)郡2万石,1600年関ヶ原の戦における戦功によって肥後天草4万石が加増された。合計石高12万3000石。広高は唐津城を完成する一方,新田開発,松浦川の改修工事,虹ノ松原防風林の植樹につとめ,16年(元和2)には総検地を実施して,藩制の基礎を整備したが,2代堅高のとき勃発した島原の乱によって天草4万石が没収され,47年(正保4)世嗣断絶によって改易となった。…

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