出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
戦国期~江戸初期の城。長崎県南島原(みなみしまばら)市南有馬(みなみありま)町乙にある。城の創築は1496年(明応5)といわれ、この地の領主有馬貴純(たかずみ)が日之江(ひのえ)城(北有馬町)の支城として築いた平城(ひらじろ)である。1614年(慶長19)有馬直純(なおずみ)の日向(ひゅうが)移封後天領となり、1616年(元和2)松倉重政(しげまさ)が入城したが、重政は島原城(島原市)を築いたので、一国一城令により原城は廃城となった。1637年(寛永14)島原・天草一揆(いっき)が起こるが、そのとき一揆勢は原城を修築して籠城(ろうじょう)。3万7000の一揆勢は12万4000の幕府軍を相手に戦い、追討使板倉重昌(しげまさ)まで討ち死にさせるというありさまであった。結局、松平信綱(のぶつな)によって攻め落とされ、城中で殺されたキリシタンは2万数千人という。城は本丸、二の丸、三の丸、天草丸の四つの曲輪(くるわ)に分かれ、本丸は岬の突端で、約30メートルの断崖(だんがい)となり、満潮時には空堀が水堀になるという天然の要害であった。現在、石垣と空堀が残るのみである。
[小和田哲男]
〔世界遺産の登録〕原城跡は、2018年(平成30)、ユネスコ(国連教育科学文化機関)により「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産として、世界遺産の文化遺産に登録された(世界文化遺産)。
[編集部 2018年9月19日]
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…加えて相つぐ凶作のため,終末観念や救世者出現の期待は急速に広まった。10月25日島原半島南部に端を発した一揆は,翌26日島原城を猛攻して落城の危機に追い込んだ。藩では急を参府中の藩主松倉勝家に報ずるとともに,近隣諸藩に救援を求めた。…
…北境沿いを有馬川が東流し,沖積低地が開け,河口に干拓地がある。キリシタン大名有馬晴信の居城原城があったところで,島原の乱により焦土と化し,住民は全滅した。その後,近畿,四国,九州の各藩から入植者があり,新集落が形成された。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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