江戸時代初期の1637(寛永14)年10月から38年2月にかけて、肥前・島原半島(長崎県)と肥後・天草(熊本県)でキリシタン農民らが起こした一揆。藩の過酷な年貢取り立てや、徳川幕府の厳しい信徒弾圧が原因。一揆勢は3万人以上となり、
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江戸初期の1637-38年(寛永14-15)に肥前島原藩と同国唐津藩の飛地肥後天草の農民が,益田時貞(天草四郎)を首領に,キリシタン信仰を旗印としておこした百姓一揆。天草の乱ともいう。領主松倉・寺沢両氏の重税は有名であるが,年貢減免等の世俗的要求でも,かつてキリシタンの中心地であったがゆえに,信仰による抵抗にすりかえ,さらなる弾圧と収奪が正当化されたところに〈苛政〉の特質があった。加えて相つぐ凶作のため,終末観念や救世者出現の期待は急速に広まった。10月25日島原半島南部に端を発した一揆は,翌26日島原城を猛攻して落城の危機に追い込んだ。藩では急を参府中の藩主松倉勝家に報ずるとともに,近隣諸藩に救援を求めた。しかし諸藩は幕府の指示を待って動かず,一揆は4万石の藩全域に及んだ。27日には有明海をはさんだ天草大矢野島でも蜂起し,やがて島原勢と合流して城代三宅藤兵衛を敗死させ,天草4万石のほぼ半ばを席巻して富岡城を囲み(11月19~23日)落城寸前にまで追いつめた。一揆の報が江戸に達すると,キリシタン一揆として事態を重視した幕府は,板倉重昌を上使とし,佐賀,久留米,柳河の3藩に出動を命じた。彼らが島原に到着する12月5日の直前,かなりの村々は領主側に転じたが,島原南部諸村と天草の一部の老幼男女2万数千人は,石垣だけの廃城となっていた旧領主有馬氏の原城にたてこもり,12月10日以降一揆の第2段階をむかえた。つまり居村を根城にした個別領主との農民一揆から,幕府権力そのものと対決する宗門一揆への転換である。
板倉重昌は,重ねての上使として老中松平信綱の派遣を知ると,その到着前に落城させるべく38年元旦に強引な総攻撃を命じ,みずからは討死した。1月4日に着陣した信綱は,十分な陣地構築と兵粮攻めに転じ,九州全域の藩主自身と備後福山の水野勝成が参戦し,総勢十数万,中国,四国の諸藩にも出動準備が命ぜられた。また平戸のオランダ商館長に命じて船砲を打ち込ませ,長崎在住の明人や町人の参戦,矢文や捕われの四郎の縁者等による投降勧告も続けられた。しかし城内の結束は固く,ついに食糧等が尽き果てた2月27,28日の総攻撃で全員殺害された。一方幕府側も攻城の期間を通じて死者2000余,負傷1万以上をかぞえ,抵抗の激しさを物語っている。この乱を乗り切った幕府は,信綱を中心に幕閣機構を確立し,松倉勝家に斬罪,寺沢堅高に天草没収,軍紀違反の大名・旗本に閉門を科す一方,禁教の強化をてこに農民統制を強め,ポルトガル貿易禁止にふみ切り(1639)鎖国政策を大きく前進させた。今日,宗門一揆説より農民一揆説が有力であるが,蜂起当初諸藩が探った情報によると,転びキリシタンの〈立上り〉とする宗門一揆説のほか,領主の苛政原因説,さらに信仰を掲げるのは上使の下向を引き出して領主の失政を越訴する策謀であるとする偽装宗門一揆説もあった。
執筆者:中村 質
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江戸初期,肥前国島原と肥後国天草の領民による大規模なキリシタン農民の一揆。島原は松倉氏,天草は肥前国唐津藩寺沢氏の領地で,ともに年貢などの収奪強化が進められ,農民からの減免要求と,領主側による過酷な弾圧が続いていた。さらにキリシタンの多かったこの地域の特殊条件が結びつき,反抗と弾圧の関係が宗教的色彩を帯びていた。1637年(寛永14)10月25日頃,島原半島南部の有馬地方の代官殺害事件を発端に農民が蜂起。一揆は天草にも広がり,両地域は一時藩権力不在の状態になった。幕府はただちに上使として板倉重昌を派遣,九州諸藩にも出兵を命じたが,益田時貞を大将に原城にこもる一揆勢の反撃にあい,38年元旦の総攻撃で重昌は戦死した。1月4日に着陣した老中松平信綱は持久戦に変更,一揆勢の消耗を待ち,2月28・29両日の総攻撃で落城させ,内通者以外の一揆勢3万人近くを殺害した。その後の幕府の禁教政策・鎖国政策に大きな影響を与える。
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…江戸幕府は禁教令をきびしくし,オランダとのみ通商を認めたが,長崎の出島を離れることを許さなかった。しかし島原の乱(1637‐38)以後断たれたはずの信者も〈隠れ切支丹(キリシタン)〉として多数残存し,また平田篤胤や新井白石はひそかに禁書を読み,あるいは潜入宣教師に会うなどして蘭学研究の道を開くことができた。キリシタン キリシタン禁制が解けたのは1873年であるが,それ以前にペリーの浦賀上陸(1853)とプロテスタント宣教師の来日(1859),ロシア正教会司祭ニコライの来日(1861)があり,1865年にはカトリックの宣教師プティジャンが〈隠れ切支丹〉に会った。…
…それよりもさらに強く人々をとらえ,信仰の前には何物をも恐れないキリシタン信仰の力は,よく知られているところである。信仰の力の強さは1637年(寛永14)の島原の乱でその極限を示した。島原領内2万7671人中の86%は一揆にくみしている。…
…1633年(寛永10)襲封。37年島原の乱が起こると,唐津領の肥後天草4万石で天草の乱が起こり,参府中の堅高が帰国参陣する前に一揆軍は天草のほぼ半ばをじゅうりんして富岡城を大破し,2000余人は島原の原城へ立てこもった。その責により天草を没収され,のち自殺して家は断絶した。…
…江戸初期,島原の乱の首領とされる少年。居住地から江辺四郎,大矢野四郎,一揆の首領として天草四郎太夫時貞,天の四郎秀綱などと呼ばれ,洗礼名はジェロニモといわれるが,正確な素性はほとんど不明である。…
…旧主有馬氏の日野江,原の両城を廃して島原城を新築した。総検地,1630年(寛永7)ルソン攻略の偵察船派遣,厳しいキリシタン検索などが,子勝家襲封直後の島原の乱のおもな一因をなした。【中村 質】。…
…生没年不詳。恵茂作,右衛門佐ともあり,島原の乱の籠城者のうちただ一人〈返忠〉により助命された。その〈口書〉は一揆側の情勢や助命の経緯を詳述するが,一概には信じられない。…
※「島原の乱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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