朝日日本歴史人物事典 「寺沢広高」の解説
寺沢広高
生年:永禄6(1563)
江戸初期の大名。通称忠次郎,正成,広忠ともいう。志摩守。従四位下。寺沢広正の嫡子。尾張(愛知県)生まれ。豊臣秀吉に仕え,文禄1(1592)年からの朝鮮の役では名護屋城普請,後備衆として 置兵糧,船継などの差配,明の講和使節接待役に当たった。慶長5(1600)年関ケ原の戦では東軍に属し,恩賞として肥前国天草4万石を加増,都合12万石の大名となった。文禄1年から長崎奉行も兼任,朱印船貿易の創始に努めたが,慶長7年ポルトガル船貿易をめぐる対立から同役を解任された。これは秀吉子飼いの外様大名寺沢氏が,徳川政権下で排除されたことを意味していよう。なお,広高がキリスト教へ改宗したという説については,イエズス会の記録などに否定的な見解がみられる。<参考文献>松代松太郎『賢君寺沢志摩守』
(福田千鶴)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報