日本大百科全書(ニッポニカ) 「寺田宗有」の意味・わかりやすい解説
寺田宗有
てらだむねあり
(1745―1825)
近世後期の剣術家。天真伝(てんしんでん)一刀流の祖。上州高崎藩江戸定府(じょうふ)の士、寺田五郎右衛門宗定の子で、通称三五郎、喜代太といった。15歳のとき下谷練塀(したやねりべい)小路の一刀流中西忠太子定(たねさだ)の門に入り、剣術修行に励んだが、子定の死後、忠蔵子武(たねたけ)の代になって、勢法(かた)をもって道を伝えることを迂遠(うえん)とし、当世風の竹刀(しない)打込み稽古(けいこ)こそ捷径(しょうけい)なりとする道場の方針に疑問を抱き、中西の門を去って平常無敵(へいじょうぶでき)流の池田八左衛門成春(なりはる)の門に転じた。ここで修行すること12年、30歳のとき奥義の谷神伝(こくしんでん)を授与された。この間、居合を伊賀半右衛門に、砲術を佐々木伝四郎に、槍術(そうじゅつ)を長尾撫髪(ぶはつ)に、柔術を金子伝右衛門に学び、いずれも皆伝・免許を受けたという。また、早くから禅機練丹の必要性を痛感し、小出切一雲(おでぎりいちうん)の無住心剣(むじゅうしんけん)や金子夢幻(むげん)の法神(ほうしん)流などの諸書を研究し、さらに42歳で初めて白隠(はくいん)の弟子東嶺和尚(とうれいおしょう)に参禅し、以後、東嶺、天仙の二師に師事し、練丹の修法を自得し、天真翁(てんしんおう)の道号を授けられた。1792年(寛政4)高崎在勤となり民政に尽力したが、96年一刀流に執心の君命により、ふたたび中西道場に帰随し、3代忠太子啓(たねひろ)のもとで組太刀(くみたち)の研究に専念、1800年56歳で皆伝・免許を許された。翌年、師の子啓が47歳で急逝し、養子の兵馬(へいま)(4代子正(たねつぐ))もいまだ15歳という道場の危機に直面した。このとき宗有は兵馬の後見となり、高柳又四郎(たかやなぎまたしろう)、白井亨(しらいとおる)を師範代に配して、無事道統を保持することに成功した。
[渡邉一郎]