小原木村
こはらぎむら
[現在地名]唐桑町 只越・上川原・堂角・大畑・小田・載鈎・岩井沢・舘・荒谷前・台の下・釜石下・竹の袖・港・出山
本吉郡最北端、唐桑半島の付根に位置し、北西部は笹長根山(五一九・九メートル)を最高峰に、不動山・霧立山などの山岳で覆われ、北は気仙郡長部村(現岩手県陸前高田市)、西は鹿折村(現気仙沼市)、南は唐桑村に接し、東は海で広田湾に面する。道は三筋、綱木坂(三二一メートル)と夜這路峠(三五〇メートル)を越え気仙沼方面へ抜ける山路二つと、海岸線に沿って南の唐桑村および北の気仙郡今泉(現陸前高田市)への道がある。集落は東部海岸地帯に多く、只越浜・載鈎浜・岩井沢浜・舘浜・大沢湊浜からなる(封内風土記)。寛永一九年(一六四二)の検地に際し、気仙沼本郷より独立したという(「本吉郡絵図附録」馬場家文書)。往古は気仙郡織野郷萩野庄小原木郷ともよばれ(唐桑町史)、中世の古館は二ヵ所ある。岩井沢の八幡館は千葉藤左衛門の居城と伝え(仙台領古城書上)、「安永風土記」には千葉美濃守とあり、気仙郡浜田(現陸前高田市)の千葉氏一族と考えられる。大沢の朝日館は小原家文書によれば、星右京大夫平忠国が小原木郷を源頼朝より給され、建久三年(一一九二)関東より下向して居住したという。星忠国の子孫にあたる星小次郎弾正忠信は、天正元年(一五七三)唐桑村北館城主阿部頼為と合戦に及び討死し、朝日館は落城した。忠信の遺子忠元は一一歳であったが、母方の実家である気仙郡白鳥館(現陸前高田市)の城主下折壁石見守盛次のもとへ逃れた。天正八年忠元は浜田の千葉氏の協力を得て唐桑北館を攻め、仇敵阿部氏を討滅した。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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