朝日日本歴史人物事典 「小栗美作」の解説
小栗美作
生年:寛永3(1626)
江戸前期の越後国高田藩(新潟県上越市)家老。名は正矩,美作守に任ぜられ美作が通称となる。家老小栗正高の嫡子として高田に生まれる。寛文5(1665)年の地震で圧死した父の跡を継いで筆頭家老となり,家禄1万7000石を譲り受け,藩政の実権を握った。その業績は,地震後の城市復興,直江津港の改修,中江用水の開削,大瀁(日本海に近い低湿地)の新田開発,銀鉱の採掘など数多く,執政15年間に高田藩の極盛期を現出した。藩の表高26万石が内高36万石になったのはその才腕によるところが大きい。しかし政策の実施には辛辣で強引な面があった。天和2(1682)年の『天和検地帳』をみると,頸城郡や魚沼郡の山村では「退転」百姓が多いのに驚く。退転の理由に自然災害などもあったかもしれないが,寛文11(1671)年,頸城郡北浦田,西浦田両村(松之山町)の検地で,山の陰や湿地で田畑になり難いところまで耕地に取り立て,また田畑の位付(良否による等位決定)で多くは一段上の位に定められたので,それだけ諸負担がかさみ「退転におよび申候」(「村山家文書」『松之山町史』所収)などとあるように検地の厳しさが退転の原因になっていることが分かる。このような辣腕を振るった美作に対し他の重臣の反感がつのり,これに藩主松平光長の継嗣問題が絡んでお家騒動(越後騒動)が起き,天和1(1681)年将軍徳川綱吉の親裁で,美作は切腹となった。<参考文献>『高田市史』,『上越市史』普及版
(中村辛一)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報