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小栗美作 おぐり みまさか

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

小栗美作 おぐり-みまさか

1626-1681 江戸時代前期の武士。
寛永3年生まれ。越後(えちご)(新潟県)高田藩士。寛文5年地震で圧死した父の跡をつぎ筆頭家老となる。直江津港改修,中江用水開削,新田開発などで業績をのこす。延宝7年藩主継嗣問題がからんでお家騒動(越後騒動)がおき,将軍徳川綱吉の裁決で9年6月22日切腹。56歳。名は正矩(まさのり)。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

朝日日本歴史人物事典の解説

小栗美作

没年:天和1.6.22(1681.8.5)
生年:寛永3(1626)
江戸前期の越後国高田藩(新潟県上越市)家老。名は正矩,美作守に任ぜられ美作が通称となる。家老小栗正高の嫡子として高田に生まれる。寛文5(1665)年の地震で圧死した父の跡を継いで筆頭家老となり,家禄1万7000石を譲り受け,藩政の実権を握った。その業績は,地震後の城市復興,直江津港の改修,中江用水の開削,大瀁(日本海に近い低湿地)の新田開発,銀鉱の採掘など数多く,執政15年間に高田藩の極盛期を現出した。藩の表高26万石が内高36万石になったのはその才腕によるところが大きい。しかし政策の実施には辛辣で強引な面があった。天和2(1682)年の『天和検地帳』をみると,頸城郡や魚沼郡の山村では「退転」百姓が多いのに驚く。退転の理由に自然災害などもあったかもしれないが,寛文11(1671)年,頸城郡北浦田,西浦田両村(松之山町)の検地で,山の陰や湿地で田畑になり難いところまで耕地に取り立て,また田畑の位付(良否による等位決定)で多くは一段上の位に定められたので,それだけ諸負担がかさみ「退転におよび申候」(「村山家文書」『松之山町史』所収)などとあるように検地の厳しさが退転の原因になっていることが分かる。このような辣腕を振るった美作に対し他の重臣の反感がつのり,これに藩主松平光長の継嗣問題が絡んでお家騒動(越後騒動)が起き,天和1(1681)年将軍徳川綱吉の親裁で,美作は切腹となった。<参考文献>『高田市史』,『上越市史』普及版

(中村辛一)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

世界大百科事典 第2版の解説

おぐりみまさか【小栗美作】

1626‐81(寛永3‐天和1)
越後高田藩松平光長の筆頭家老。名は正矩。1665年(寛文5)高田大地震で父五郎左衛門が圧死したためその職を継ぐ。高田城修築,城下町高田の区画整理を断行して現在の町並みとした。大瀁(おおぶけ)郷の新田開発,中江・大瀁両用水開削,直江津の築港,魚沼の銀鉱採掘など殖産興業に尽くし藩財政を豊かにしたが,いわゆる越後騒動により将軍徳川綱吉から切腹を命ぜられた。【渡辺 慶一】

出典 株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について 情報

世界大百科事典内の小栗美作の言及

【越後騒動】より

…1679‐81年(延宝7‐天和1)に越後高田藩松平家に起きた継嗣問題にからむ御家騒動。1674年正月松平光長の嗣子下野守綱賢が死んで子がなく,筆頭家老小栗美作は光長の異母弟市正(いちのかみ)の子万徳丸(15歳)を推して光長の承諾を得,将軍徳川家綱に謁して三河守綱国とした。市正の弟永見大蔵や家老荻田主馬らはこれをもって,美作がわが子掃部(かもん)大六を光長の嗣子にしようとしたが見込みがないので,少年万徳丸を立てて権力をほしいままにし主家を横領しようとするものと喧伝し,殿様のため(お為方)に美作(逆意方)を除こうと騒いだ。…

※「小栗美作」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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