朝日日本歴史人物事典 「松平光長」の解説
松平光長
生年:元和1.11.29(1616.1.18)
江戸前期の越後国高田藩(新潟県上越市)藩主。幼名は仙千代。父は越前国福井藩主松平忠直,母は将軍徳川秀忠の娘勝子。元和9(1623)年忠直が豊後へ流されたため,9歳で家督を継ぎ北庄藩(のちの福井藩)藩主となる。翌寛永1(1624)年高田転封を命ぜられ,北庄へ転ずる叔父の高田藩主松平忠昌と入れ代わった。しかし当時10歳だったので母と共に江戸屋敷に入り,小栗正高,荻田隼人の両家老が越後に下った。実際に母と高田に入ったのは10年後の同11年である。知行ははじめ25万石であった。寛永6(1629)年将軍家光の一字をもらって光長に改名。同年越後守。慶安3(1650)年父が配所で没したため,翌4年幕府は,父の遣子ふたりを光長の家臣とし,ふたりの土地5000石と父の遺領5000石の計1万石を越後に替地したので,領地は26万石となった。その範囲は,越後の頸城全郡と刈羽,三島,魚沼3郡のうちに多数,さらに信濃更科郡の一部におよんだ。同年従三位右近衛権中将に任ぜられ,越後様,越後中将とも呼ばれる。 光長の高田在封57年間は,凶作や大火,特に寛文5(1665)年の地震などの大きな災害に遭遇したにもかかわらず,家老小栗正高・美作の強力な指導によって,藩制の整備,中江用水の開削,大瀁(頸城村)その他の新田開発,魚沼銀山の採掘,城下町の復興整備,直江津港の改修,大鹿煙草の改良増産などが進められて,高田藩最盛期を現出し,その繁栄はいまも追慕されるほどである。しかし藩の重臣間に分裂対立があり,これに嫡子が病死した藩主光長の継嗣問題が絡んで,藩内の抗争が激化し「越後騒動」といわれるお家騒動が起きたため,その責任を問われ伊予国(愛媛県)松山に流された。7年後赦免。元禄6(1693)年松平宣富を養子に迎え,やがて隠居して風雅を楽しみながら余生を送った。<参考文献>『徳川実紀』,『高田市史』
(中村辛一)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報