日本歴史地名大系 「小用村」の解説 小用村おようむら 広島県:庄原市小用村[現在地名]庄原市小用町西城(さいじよう)川の南、大黒目(おおぐろめ)山・権現(ごんげん)山の西麓に位置する。北は高(たか)村、東は本(ほん)村に接する。三上(みかみ)郡に属した。中世には高郷・高庄とよばれた地に含まれていたと思われ、天正一四年(一五八六)二月一二日付の山内隆通知行書立案(山内首藤家文書)に「高・小用百貫、但此内当国一宮領数多有之」とあり、「芸藩通志」にも「古は高村の内にて、小用谷とよびしともいへり」とある。地(じび)庄の地頭として関東から移住した山内氏は、隣接の信敷(しのお)庄にも勢力を伸ばし、信敷庄と高・小用の接点である篠津原(しのつはら)に雲井(くもい)城(篠津原城)を構え、奴可(ぬか)郡(現比婆郡東部)一円に勢力をもった宮氏と対した。 小用村こようむら 埼玉県:比企郡鳩山町小用村[現在地名]鳩山町小用大豆戸(まめど)村の南に位置する。近世には入間(いるま)郡に属し、「こいよう」とも称した(「郡村誌」など)。南は同郡西戸(さいど)村・箕和田(みのわだ)村(現毛呂山町)、西は同郡如意(ねおい)村(現越生町)。「風土記稿」によると古くは大豆戸村と一村で、同村を上越用(かみこいよう)とよんだのに対して、下越用と称したという。また慶長三年(一五九八)改の水帳には「入西郡下越用村」と記されていたという。永正一四年(一五一七)五月一四日の出雲守直朝・弾正忠尊能連署証状写(相馬文書)にみえる「小祐福寿寺」は当地福寿(ふくじゆ)寺のことか。天文一五年(一五四六)四月一五日の北条氏康感状(平之内文書)に「小用嶺」とみえ、氏康は荒河端より小用嶺に至る竹本源三の戦功を賞している。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by