信敷庄(読み)しのおのしよう

日本歴史地名大系 「信敷庄」の解説

信敷庄
しのおのしよう

三上みかみ郡のほぼ南半分、現在の是松これまつ板橋いたばし一木ひとつぎ実留さねどめ春田しゆんだ峰田みねた上谷うえだに本村ほんむらの諸町一帯を荘域とする。「吾妻鏡」文治二年(一一八六)一月二八日条に「備後信敷庄以下数ケ所地頭職与于彼室家給云々」とみえる。平家没官領(吾妻鏡)で、文治二年一条能保の妻(源頼朝の妹)に与えられた。その死後の建久三年(一一九二)には摂津国福原ふくはら庄・武庫むこ御厨など計二〇ヵ所の所領とともにその子供に相続された(同書建久三年一二月一四日条)が、信敷庄がだれに渡ったかは不明。

正安二年(一三〇〇)五月二三日の六波羅下知状(山内首藤家文書)によれば、当時信敷庄の地頭は長井聖願であったが、名主の泉谷秀信は荘内の峰・春田田所職押領しようとし相論となっており、当庄における名主層の成長ぶりと、秩序の崩れがちな状況がうかがえる。一四世紀初頭には、荘内は東方西方に分けられ(下地中分などについては不詳)、別々の動きをしている。すなわち暦仁元年(一二三八)幕府は京都に篝屋を置き治安維持に当たったが、当庄西方は嘉元元年(一三〇三)には四条烏丸篝屋の費用をまかなう料所となっており、地頭は長井頼秀であった(同年一二月一四日「関東御教書」毛利家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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