日本歴史地名大系 「信敷庄」の解説
信敷庄
しのおのしよう
- 広島県:庄原市
- 信敷庄
旧
正安二年(一三〇〇)五月二三日の六波羅下知状(山内首藤家文書)によれば、当時信敷庄の地頭は長井聖願であったが、名主の泉谷秀信は荘内の峰・春田の田所職を押領しようとし相論となっており、当庄における名主層の成長ぶりと、秩序の崩れがちな状況がうかがえる。一四世紀初頭には、荘内は東方と西方に分けられ(下地中分などについては不詳)、別々の動きをしている。すなわち暦仁元年(一二三八)幕府は京都に篝屋を置き治安維持に当たったが、当庄西方は嘉元元年(一三〇三)には四条烏丸篝屋の費用をまかなう料所となっており、地頭は長井頼秀であった(同年一二月一四日「関東御教書」毛利家文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報