小田原城下(読み)おだわらじようか

日本歴史地名大系 「小田原城下」の解説

小田原城下
おだわらじようか

[現在地名]小田原なか町一―三丁目・はま町一―四丁目・さかえ町一―四丁目・ほん町一―四丁目・みなみ町一―四丁目・城内じようない城山しろやま一―四丁目・みどり十字じゆうじ四丁目・谷津やつ

足柄あしがら平野の西南端に位置する小田原城を中心とする城下町

〔城下町の成立〕

一五世紀に大森氏によって小田原城が築かれて以来、城下が徐々に形成されたとみられるが史料的には不明で、明応四年(一四九五)北条早雲の小田原城奪取後、とくに氏康の代に小田原城天守が現在地に下ってから、武家地および町人地が城周辺に拡大、諸国商人の来住が多くなった。天文二〇年(一五五一)京都南禅なんぜん寺の東嶺智旺は「明淑録」で、「町の小路は数歩の間、地に一塵なし、東南は海なり、海水は小田原の麓をめぐらす、太守の塁は喬木森々として高館巨麗なり」と記し、また「北条記」は「相州小田原の守護の私なく民を撫しかは、近国の人民、恵みに懐つき移家、津々浦々の町人職人、西国、北国より群来、昔の鎌倉も争か是程あらんやと、見る計に見へにける、東は一色より板橋に至迄、其間一里の程に棚を張、買売数を尽しけり」という。しかし支城制をとる北条氏の支配下では、家臣団の城下集住も規模はさして大きかったとは思われず、山角氏・山上氏・須藤氏・松田氏・狩野氏・医師田村安斎の居住と北条氏照の奥州屋敷などを知るのみである。城東に城主の尊崇する松原まつばら大明神があり、その門前宮前みやまえ町が開かれ、かみ町・しも町に分れた(永禄九年五月「北条氏康朱印状」県史三、ただし下町のみ)

この頃の城下の呼称として北条氏滅亡直後の文禄元年(一五九二)以前の史料には、宮前町・通小路とおりこうじ(後の本町)代官だいかん小路(後の代官町)小笠原おがさわら(後の唐人町)壱町田いつちようだ欄干橋らんかんばしやなぎ小路・船方ふなかた(後の千度小路)があり、このほかに「風土記稿」は狩野かの小路・諸白もろはく小路・天神てんじん小路・御花畑おはなばた小路・みや小路・大手おおて小路・林学りんがく小路・鍋弦なべづる小路・金篦かなべら小路などの小路名をあげている。「小路」は北条氏の時代には町名を示し、近世の城下になると千度せんど小路以外の小路の称はすべて武家地を示すものとして用いられている。北条氏の城下の支配者としてはわずかに今宿いまじゆく町奉行外郎ういろう宇野氏と宮前下町に奉行賀藤氏が知られるのみで、また職人・商人も近世に入っての命名ながらなべ町・大工だいく町があることから、鋳物師・番匠の集住が推測できるだけである。

北条氏により構築された小田原城外郭の土塁は、寺院の境内、あるいは隣接地にあり、山角やまかく町の伝肇でんちよう寺・光円こうえん寺・報身ほうしん寺、代官町の無量むりよう寺、大工町の蓮上れんじよう院などの境内には往時の土塁が残存しており、このような寺院配置は戦国時代にできていたものと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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