日本大百科全書(ニッポニカ) 「北条氏照」の意味・わかりやすい解説
北条氏照
ほうじょううじてる
(?―1590)
1541年(天文10)ごろ、戦国大名北条氏康(うじやす)の三男として誕生。母今川氏親(いまがわうじちか)娘。通称源三(げんぞう)。受領名陸奥守。1546年氏康が関東管領上杉憲政(うえすぎのりまさ)らを破り、氏照は降伏した憲政の宿老武蔵国滝山(たきやま)城主の大石道俊(おおいしどうしゅん)のもとに養子に入り、当初大石姓を名乗る。その後1561年(永禄4)ごろ滝山城主となり、北条氏の支城主として軍事的能力を発揮する。1564年の下総国国府台(こうのだい)合戦のあと北関東方面に進出して、1568年には同国栗橋(くりはし)城主を兼ね複合的支城主となり、北条氏の領国支配に重きをなす。とくに古河公方(こがくぼう)足利氏への対応や伊達氏、徳川氏、織田氏など諸大名との外交に尽力した。1582年(天正10)過ぎごろには武蔵国八王子城を大改修して滝山城から移り、その後の豊臣秀吉による北条氏攻めに対抗する。結局、1590年の小田原合戦の敗北により、兄氏政とともに自刃した。現在、印文「如意成就(にょいじょうじゅ)」(1度改刻)と印文未詳印との2種の朱印状を始め書状、判物(もつ)など270通余の発給文書を残している。
[有光友學]
『佐藤博信著「北条氏照に関する考察」(『古河公方足利氏の研究』所収・1989・校倉書房)』▽『下山治久著『八王子城主・北条氏照』(1994・たましん地域文化財団)』