小田草城跡(読み)おだくさじようあと

日本歴史地名大系 「小田草城跡」の解説

小田草城跡
おだくさじようあと

[現在地名]鏡野町馬場

伯耆往来に沿う要衝の地に位置する山城。「作陽誌」に「山高二百十二間、天正初斎藤玄蕃宅此、故塁尚存、此山東南二丁許亦有小堡」とある。正保郷帳馬場ばば村の項にも小田草城と朱書され、「作州記」の古城の項に馬場村小田草城斎藤玄蕃の名がみえる。小田草神社の鐘銘には貞治七年(一三六八)斎藤二郎が寄進したことがみられ、斎藤氏はこの地方における有力者であったと推定される。斎藤氏は初め尼子氏に属したが、尼子晴久卒去後尼子氏の勢力が凋落すると毛利氏に属した。「陰徳太平記」によれば、尼子義久美作における勢力回復のため、使者として家臣平野又右衛門を小田草城に派遣したが、城主斎藤玄蕃助近実は城門でこれを討たんとしたので、平野氏は見事な自害を遂げたことを記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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