尼子勝久(読み)アマコカツヒサ

精選版 日本国語大辞典 「尼子勝久」の意味・読み・例文・類語

あまこ‐かつひさ【尼子勝久】

  1. 室町後期の武将。誠久(もとひさ)の子。京都東福寺の僧であったが還俗して山中鹿之助(介)らに助けられ、尼子氏再興をはかった。織田信長を頼ったが、播磨上月城で、毛利軍に攻められ自刃。尼子氏は滅亡天文二二~天正六年(一五五三‐七八

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「尼子勝久」の意味・わかりやすい解説

尼子勝久
あまこかつひさ

[生]天文22(1553)
[没]天正6(1578).7.3. 播磨,上月
戦国大名。誠久の子。もと京都東福寺の僧。永禄9 (1566) 年晴久の子義久が毛利元就に敗れて尼子氏が滅亡すると,勝久は同 11年 10月,主家の再興を企てた遺臣山中幸盛や立原久綱らに擁立され,翌 12年5月隠岐に,さらに出雲に奔走し旧臣糾合に努め,その勢力を復興したかにみえたが,元亀1 (70) 年1月毛利輝元との戦いに敗れ,翌2年織田信長を頼って上洛。天正5 (77) 年豊臣秀吉の播磨上月城攻略ののち,同城を守備したが,翌6年毛利氏の攻撃を受け,さらに6月 12日秀吉の軍が撤退するとやがて落城,自殺した。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「尼子勝久」の解説

尼子勝久 あまこ-かつひさ

1553-1578 織豊時代の武将。
天文(てんぶん)22年生まれ。尼子国久の孫。尼子氏再興をはかり,永禄(えいろく)12年大友宗麟(そうりん)の援助をえて挙兵。出雲(いずも)(島根県)の大半を回復するが,翌年毛利氏に敗れ,織田信長をたよる。のち羽柴(豊臣)秀吉に属し播磨(はりま)(兵庫県)上月(こうづき)城をまもるが,天正(てんしょう)6年7月3日毛利軍に包囲され自刃(じじん)。26歳。通称は孫四郎。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の尼子勝久の言及

【尼子氏】より

…近江源氏佐々木氏の一族で,室町・戦国時代の大名。出雲,隠岐の守護京極高秀の三男高久が近江犬上郡尼子郷に住し尼子氏を称した。その子持久が出雲守護代となってから代々同国能義郡富田(とだ)城(月山城)を拠点とした。次の清定は応仁・文明の乱に際し国内の平定に努めて興隆の基礎を固め,その子経久は守護京極氏に代わり出雲を中心に近隣諸国の国人を従え,安芸,石見で大内氏と中国地方の覇を競った。その孫晴久は大内氏に従った安芸の毛利氏を攻めて敗れたが,大内・毛利勢の反撃を退けその勢力を保った。…

【山中鹿介】より

…出雲尼子氏の家臣。1566年(永禄9)尼子義久が毛利氏に降伏して以後,京都東福寺にあった尼子勝久を擁立して立原久綱らとともに尼子氏再興に尽力した。69年豊後の大友義鎮(よししげ)と連携して隠岐に挙兵,一時出雲の大半を回復した。…

※「尼子勝久」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

《「晋書」杜預伝から》竹が最初の一節を割るとあとは一気に割れるように、勢いが激しくてとどめがたいこと。「破竹の勢いで連戦連勝する」[類語]強い・強力・強大・無敵・最強・力強い・勝負強い・屈強・強豪・強...

破竹の勢いの用語解説を読む