苫田郡(読み)とまたぐん

日本歴史地名大系 「苫田郡」の解説

苫田郡
とまたぐん

面積:六二〇・九六平方キロ
阿波あば村・加茂かも町・上齋原かみさいばら村・奥津おくつ町・鏡野かがみの町・とみ

県北部にあり、吉井川とその支流、加茂川香々美かがみ川流域の沖積平野を中心とし、その周辺に広大な山林を有する。北は中国山地により鳥取県東伯とうはく三朝みささ町と同県八頭やず佐治さじ村・用瀬もちがせ町・智頭ちず町に、東は勝田かつた勝北しようぼく町、南は津山市久米くめ郡久米町、西は真庭まにわ久世くせ町・湯原ゆばら町・中和ちゆうか村に接する。「続日本紀」和銅六年(七一三)四月三日条に初見する苫田郡域は、明治三三年(一九〇〇)に再成立した苫田郡域とほぼ同様と考えられる。その範囲は、現郡域に現津山市のうち吉井川左岸地域と加茂川右岸地域を併せたものである。

八世紀初頭には成立していた苫田郡は、九世紀後半に苫東とまひがし郡・苫西郡に分割されたので、「延喜式」「和名抄」には記載されない。しかし「和名抄」苫東郡苫田郷について、高山寺本は「止万多」、東急本は「止毛多」の訓を付しており、これは郡名にも該当すると思われる。また郡内に所在した郷については、のちの苫東・苫西両郡に所属した一六郷をすべて含んでいたと思われ、これは律令制の郡の等級規定によれば大郡にあたる。苫東郡・苫西郡に分離する以前の記述は、現津山市域となっている地域をも含めて行うこととする。

〔原始・古代〕

旧石器時代の遺跡としては、中国山地の分水嶺の南、標高七百数十メートルの高原にある上齋原村恩原おんばら遺跡が知られ、ナイフ形石器・翼状剥片・細石刃などからなる三時期の文化層が確認されている。縄文時代の遺跡は各地に散在し、前述の恩原遺跡のほか、鏡野町の竹田たけだ遺跡・布原ぬのはら遺跡・隠峪かくれざこ遺跡、津山市の東蔵坊とうぞうぼう遺跡などがある。このうち竹田遺跡は香々美川右岸丘陵上にある早期の集落跡で、住居跡六・杭穴多数・焼土跡一・ピット二などが検出された。弥生時代の遺跡は津山盆地を中心に数多く存在する。とくに中期後葉以降は爆発的とでも形容すべき遺跡数の増大がみられる。おもな集落遺跡として、みや川流域の津山市のぬま遺跡・十二社じゆうにしや遺跡・京免きようめん遺跡、加茂川水系の津山市ビシャコだに遺跡・押入西おしいれにし遺跡などがある。沼遺跡は中期後葉の単位集落として著名である。また墓地遺跡として宮川水系の津山市下道山げどうやま遺跡・上原うえばら遺跡などが調査されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報