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少弐冬資 しょうに ふゆすけ

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

少弐冬資 しょうに-ふゆすけ

1333-1375 南北朝時代の武将。
正慶(しょうきょう)2=元弘(げんこう)3年生まれ。少弐頼尚(よりひさ)の次男。筑前(ちくぜん)守護,大宰(だざいの)少弐。北朝方にくみし,北九州を中心に南朝方の菊池武光らとたたかったが敗北。幕府から九州探題として派遣された今川了俊(りょうしゅん)と対立,永和元=天授元年8月26日肥後(熊本県)水島で謀殺された。43歳。通称は孫二郎。法名は天岸存覚。

出典|講談社
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朝日日本歴史人物事典の解説

少弐冬資

没年:永和1天授1.8.26(1375.9.22)
生年:正慶2/元弘3(1333)
南北朝時代の武将。孫次郎,大宰少弐。筑前(福岡県)守護。頼尚の子。康安1/正平16(1361)年父頼尚は出家して本通と称するようになる。ほぼ同じころ,冬資が大宰少弐の官途で文書を出していることから,このころ家督を継いだらしい。対馬守護職を継承したかどうかははっきりしない。弟の頼澄は南朝方の大宰少弐として活動しており,少弐氏の勢力は二分されていた。冬資の関係文書は多くないが,軍事関係文書に点々と顔をみせる。貞治1/正平17年9月21日の筑前長者原合戦では,九州探題斯波氏経と共に菊池武光と戦い,敗れた。同年10月には筑前榊氏に兵粮料所を預け置き,また肥前(佐賀県,長崎県)竜造寺氏の軍忠状に証判をしている。貞治4/正平20年から翌年にかけては,豊前(福岡県,大分県)門司氏の軍忠状に証判を加えており,豊前方面で活動していたことがわかる。その後上洛し,応安3/建徳1(1370)年11月26日九州に下向。翌年,今川了俊が九州探題として下向すると,当初はその南朝攻撃に協力したが,次第に対立するに至った。筑前宗像神社の社領をたびたび押領する冬資に対し,了俊はその禁止を命じている。永和1/天授1(1375)年7月,肥後国(熊本県)水島に陣を置いた了俊に島津氏久,大友親世共々招かれ,冬資ははじめこれに応じなかったが,8月26日ついに応じ,同陣中で謀殺された。これによって少弐氏の勢力は衰退の一途をたどることになる。<参考文献>川添昭二『今川了俊』

(佐伯弘次)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典内の少弐冬資の言及

【九州探題】より

…領国形成志向の旺盛さは,もちろん,在来守護層との関係も切迫させる。75年(天授1∥永和1)肥後水島で少弐冬資を誘殺したため,以後,島津氏久との関係が緊張したことは,その代表的例といえよう。両朝合一まもない95年(応永2),彼が探題職を解任されたのもこの辺に大きな原因があろう。…

※「少弐冬資」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
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