朝日日本歴史人物事典 「尼崎屋又右衛門」の解説
尼崎屋又右衛門(初代)
生年:生年不詳
江戸時代の大坂の商人。江戸時代初期の大坂には徳川氏と深い縁故を持つ門閥的特権町人として三町人と呼ばれる家があったが,尼崎屋は寺島藤右衛門家,山村与助家と共にそのひとつであった。もと尼崎の出身といわれるが,「三町人由緒書」によると,三好一族の摂津小清水の城主篠原右京亮のあとと伝える。同家の初代又次郎吉次は徳川家康の戦陣に随伴し,材木・船を供給するなどその御用を勤め,慶長12(1607)年には朱印状をうけトンキンに渡海している。慶長16年又次郎没後,甥の又左衛門があとを継ぎ,大坂の陣には旗本を勤め,徳川氏のため武器などを供給して貢献をなした。のち又右衛門(初代)と名乗り,駿府・江戸室町・大坂天満長柄町に屋敷を拝領した。 以後代々にわたって又右衛門名を相続し,元禄期以前までは町人の頭領として外様の別格を与えられ,常に大坂城に出入りして,苗字帯刀および出入りには槍を立てることを許され,城代の指揮を受け,諸用に弁じた。天和3(1683)年,4代目浄柳以後帯刀を止められたが,公儀一味として与力の地位を維持し,江戸末期まで惣年寄・町年寄の上にあって,幕府から最高の特権と格式を付与された。延宝年間(1673~81)には新剣先船100艘を新造,元禄年間(1688~1704)には尼崎新田を開発して大和川舟運にも進出した。江戸中期以降摂津国島上・島下両郡では長崎貿易での輸出品として寒天の製造が盛んとなり,相次いで生産者が増えたため,文化11(1814)年大坂町奉行から尼崎屋は取締役に任ぜられ,以後尼崎屋は株元として業者に鑑札を交付するなど,寒天業は尼崎屋の統制下におかれた。のちこの取締は布海苔・天草にもおよんだ。<参考文献>「三町人由緒書」(『大阪市史』5巻),宮本又次『大阪町人』
(宮本又郎)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報