山村与助(読み)やまむらよすけ

改訂新版 世界大百科事典 「山村与助」の意味・わかりやすい解説

山村与助 (やまむらよすけ)

江戸時代の大坂大工頭。3代正直(助右衛門)のほかは,初代正寛以下11代正凝まで,すべて与助を通称とした。尼崎又右衛門寺島藤右衛門歴代とともに大坂の惣年寄町年寄の上位にあって,幕府から最高の特権格式を認められ,大坂の三町人と呼ばれる。初代正寛は徳川家康の伏見在城時に召し出されて御大工となり,1616年(元和2)配下の大工,木挽,屋根葺,桶師,左官らを率いて大坂に移住,大坂城内外の新築修繕,橋普請,検地御用を務めた。大坂在住の大工は京都大工頭中井氏の配下であったが,公用に関しては山村氏の支配を受ける例であり,また木挽,屋根葺,桶師,左官,井戸掘,石切,畳刺,鍛冶,塗師も山村氏が支配し,幕末の1822年(文政5)には大坂三郷搗米屋の一部,56年(安政3)には船大工,65年(慶応1)には張付師職,黒鍬職もまた,山村氏配下に属せしめられるなど,江戸時代を通じて特権を維持した。
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朝日日本歴史人物事典 「山村与助」の解説

山村与助(初代)

没年:寛永17(1640)
生年:生年不詳
江戸時代の大工で,大坂三町人のひとり。山村家は大和国(奈良県)添上郡山村の出身。代々,与助(与介)を名乗る。初代与助正寛は,徳川家康の伏見在城時に召されて御大工になり,諸職人の支配を許された。大坂の陣後に大坂へ移住し,配下の職人は伏見組と称した。元和6(1620)年から始まった大坂城の再建工事に,大工頭中井正侶の下で参画し,同9年に大坂城の仮殿になった伏見城本丸御殿の移築に関与。寛永1(1624)年の本丸・二の丸工事では,釘・鎹を請け取り,丁場に分配子孫は代々,大坂御大工頭として大坂城内外の新築修理に携わり,嘉永1(1848)年大坂城大手門の再建棟札に御大工山村与介正凝(11代与介,1887没)の名がある。また菩提寺の願生寺に「大坂御天守指図」が伝来。延享5(1748)年刊『難波丸綱目』に,配下は手代棟梁2人,小棟梁7人,総大工170人余とある。<参考文献>大阪市参事会編『大阪市史』,『まちに住まう・大阪都市住宅史』,桜井敏雄ほか「徳川幕府の大坂城天守について」(『日本建築学会近畿支部研究報告集』),高橋正彦編『大工頭中井家文書』

(谷直樹)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「山村与助」の解説

山村与助(初代) やまむら-よすけ

?-1640 江戸時代前期の大工。
徳川家康の伏見在城中に御大工となり,諸職人支配をゆるされる。元和(げんな)2年大坂に移住し,大坂城の再建などにあたる。尼崎屋(あまがさきや)又右衛門らとともに大坂三町人とよばれた。以後代々が与助を称する。寛永17年死去。名は正寛。

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世界大百科事典(旧版)内の山村与助の言及

【職人】より

…1699年(元禄12)江戸の建築関係11種の職人肝煎(きもいり)が定められたが,江戸城への御用役体制の再編であり,職人頭は本来の技術家的なものから御用役を請け負う末端吏僚的性格をもつようになる。上方では,大坂大工は特権町人山村与助の支配下にあったが,1663年(寛文3)に京都大工頭中井家の支配下に入り,96年には木挽(こびき)・大鋸(おが)職人も加えられて,中井家による御用役体制が整備されている。町方職人化の進展にともない御用役体制の再編がはかられたのである。…

※「山村与助」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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