コルネイユ(読み)こるねいゆ(英語表記)Pierre Corneille

デジタル大辞泉 「コルネイユ」の意味・読み・例文・類語

コルネイユ(Pierre Corneille)

[1606~1684]フランス劇作家ラシーヌと並ぶフランス古典劇の確立者。情念と義務の葛藤かっとうを意志で克服する英雄的人間像を描く悲劇を創出。悲劇「ル‐シッド」「オラース」「シンナ」「ポリュークト」、喜劇「嘘つき男」など。

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精選版 日本国語大辞典 「コルネイユ」の意味・読み・例文・類語

コルネイユ

  1. ( Pierre Corneille ピエール━ ) フランスの劇作家。古典悲劇の完成者。その悲劇は、ラシーヌの情熱の悲劇に対して、意志と理性の勝利を描き、英雄的人物を題材に選ぶ。代表作は「ル‐シッド」「オラース」「シンナ」「ポリュークト」、喜劇「うそつき男」など。(一六〇六‐八四

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「コルネイユ」の意味・わかりやすい解説

コルネイユ(Pierre Corneille)
こるねいゆ
Pierre Corneille
(1606―1684)

フランス古典劇の大作家。

[岩瀬 孝]

生いたち

6月6日、北フランス、ルーアンの代々官吏で篤信の家の長男に生まれる。1615~22年の間、同市のイエズス会経営の学院に学び、自由意志優先の信仰とセネカの克己思想を知り、ラテン語で優等賞を得た。この教育は、彼の思想と芸術を方向づけた。24年ルーアンの法院で法律を実習し法学士となるが、口下手で法廷に適さず、28年父から治水山林と港湾関係の監督官職の株を与えられ、50年まで奉職する。

[岩瀬 孝]

喜劇の成功

閑職で、詩作にふけり、市の社交界に出入りし、カトリーヌ・ド・ユー嬢への恋に刺激されて、社交界の若い男女の恋愛を描いた喜劇『メリット』(1629初演、1634刊)をルーアンで興行中のモンドリー一座に持ち込み、劇団はパリで初演に成功、以後マレー座で彼の作品を連続上演する。コルネイユは悲喜劇『クリタンドル』(1630初演)に成功せず、喜劇『未亡人』(1632初演)の好評ののち、『法院の回廊』(1632初演、1637刊)を頂点とする一連の喜劇で有名となる。後の『嘘(うそ)つき男』(1634初演、1644刊)は喜劇系の傑作で、モリエール以前に社交界人の鑑賞に堪える文学的喜劇を確立した功績は大きい。宰相リシュリューは彼の才能をみて、劇作家ロトルーらと『チュイルリー宮の喜劇』(1635初演)を合作させたが、彼は御用作家となるのを好まず、ルーアンに在住した。

[岩瀬 孝]

古典悲劇の確立

1630年ごろ学識者と社交界は古代悲劇の格調と形態に準じた正則悲劇を求め、これに応じたメーレの『ソフォニスブ』(1634初演)が成功した。これをみたコルネイユは、当時研究中のスペイン劇に取材し、悲喜劇『ル・シッド』(1637初演・刊、60年版では『悲劇』と改題)で、家門の名誉のため仇(かたき)同士となった相愛の男女を主人公とし、自由意志が情念より義務を選び、高邁(こうまい)な行動を貫く過程を人物の内面の葛藤(かっとう)として描き、画期的な成功を収めた。しかし、嫉妬(しっと)した同輩から、女主人公が仇に恋するのは礼節に背き、時と所と筋の単一という規則に反し、種本があるなどと攻撃され、「ル・シッド論争」となり、リシュリューは文壇の長老シャプランに「アカデミーの意見」を発表させて論争を収めた。コルネイユは3年の沈黙ののち、愛国の悲劇『オラース』(1640初演・刊)、寛容の悲劇『シンナ』(1642初演、1643刊)、信仰の悲劇『ポリュクト』(同上)を発表、不滅の名声を得て、古典悲劇を確立した。『シンナ』で、ローマ皇帝オーギュストは、自分を父の仇とする美女エミリーへの愛から反逆をたくらんだ友シンナを許し、この度量を仰がれ、「私は世界に君臨する主君、自分に対しても支配者」と誇る。『ポリュクト』はローマの属国アルメニアの貴族の名で、彼は国禁のキリスト教に帰依(きえ)し、ローマ人総督の娘である妻ポーリーヌの嘆願を退け、義父の命令で処刑されるが、その悲壮な信念で妻と義父を改宗させ、妻の昔の恋人のローマの騎士セベールも感動する。3編とも三一致の法則(場所は同一地域という解釈)を守り、壮麗な韻文で、意志で情念を克服する高邁な人物を描き、今日も愛誦(あいしょう)される名文句が多い。

[岩瀬 孝]

劇作の断念

彼は1640年法官の娘マリ・ド・ランペリエールと結婚し、ルーアンに定住するが、宰相マザランの知遇を得てパリ社交界にも出入りし、秀作『ロドギュンヌ』(1644初演、1647刊)で老王妃が権力欲と嫉妬から自滅する姿を描き、47年アカデミー会員となる。フランスの内乱、フロンドの乱(1648~53)ではマザラン派にくみし、混乱のなかで官職を失い、教会の会計係に甘んじながら、宗教書『キリストに倣いて』の仏訳(1651~56刊)で名文をたたえられた。『ニコメード』(1651初演・刊)は、ローマの属領の王子が国民と隣国の女王への愛からローマに抵抗し成功する物語で、中期の作品を代表するが、このころから、異常な人物と状況を求めすぎて人間の実相を離れがちで、『ペルタリート』(1651初演、1653刊)で失敗、劇作の断念を宣言した。

[岩瀬 孝]

不幸な晩年

その後、弟トーマの成功、モリエール一座の女優ラ・デュ・パルクへの恋、財務卿(きょう)フーケの勧めなどで劇界に復帰し、1660年演劇理論家ドービニャックの『演劇の実際』に反論する「劇詩論」と「自作吟味」を添えた『自選改訂戯曲集』を刊行し、62年パリに移住したが、フーケの失脚後、新権力者コルベールに冷遇され、75年、王の年金まで取り消された。同年の『セルトリュス』は、亡命したローマの老名将をめぐる政治と結婚の駆け引きを描き、後期の代表作だが、以後の作品は同じ趣向が続き、自然な心情と優美な恋愛を求める新風潮に好まれず、70年、後輩ラシーヌと同一主題で競作した『ティットとベレニス』(1670初演、1671刊)では、作品の質が高いのに敗北を喫した。晩年の友モリエールの死、マレー座の併合、妻の病、息子の死など不利な状況のなかで、74年『シュレナ』(1674初演、1675刊)が歓迎されないのをみて筆を断った。80~84年のころは作品の再演が多く、年金の復活をみてから84年10月1日、パリで病死した。

[岩瀬 孝]

『岩瀬孝・伊藤洋他訳『コルネイユ名作集』(1975・白水社)』『ピニャール著、岩瀬孝訳『世界演劇史』(1955・白水社)』


コルネイユ(Thomas Corneille)
こるねいゆ
Thomas Corneille
(1625―1709)

フランスの劇作家。フランス古典劇の大家ピエール・コルネイユの弟。当時の好みに迎合し、空想的な変化に富む筋立てと優雅な恋愛を組み合わせた作風で演劇界に活躍。クレートの王子が敵国の王女に恋し、敵の将軍に変装して両国間を往来し、勝利と恋を得る筋の悲劇『チモクラート』(1656初演)で非常な成功を得たが、今日では顧みられない。1677年から『メルキュール』誌に協力、85年アカデミー会員となった。

[岩瀬 孝]

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改訂新版 世界大百科事典 「コルネイユ」の意味・わかりやすい解説

コルネイユ
Pierre Corneille
生没年:1606-84

フランスの劇作家。モリエール,ラシーヌとともに三大古典劇作家と称される。北フランス,ルーアンの中流家庭に生まれ,イエズス会の学校で学ぶ。その後法律を修めて弁護士になり,かたわら戯曲を書いた。処女作の喜劇《メリート》(1629)がパリで成功し,以後風俗喜劇《ロアイヤル広場》(1633)やバロック喜劇の傑作《舞台は夢》(1635)などを書く。彼の初期喜劇は上流人士の登場する上品なもので,喜劇の品位向上に貢献した。やがて1637年初頭,悲喜劇《ル・シッド》が初演されると,熱狂的な歓迎を受け大評判となった。ところがこの画期的成功をねたむ劇作家たちから三統一の規則への違反,盗作と非難され,ここに〈ル・シッド論争〉が起きた。3年間沈黙したのち,今度は規則に合致した三大意志悲劇の傑作,祖国愛を扱う《オラース》(1640),寛容を説く《シンナ》(1642),殉教を語る《ポリュークト》(1642)を発表,不滅の地位を築いた。以後も絶えず新しい演劇を探求し,喜劇《噓つき男》(1644),悲劇《ロドギュンヌ》(1644),《ニコメード》(1651)と傑作を発表。続く悲劇《ペルタリート》(1652)の失敗で一時筆を絶つ。7年後,悲劇《エディップ》(1659)で劇界に復帰。この間《演劇論》を執筆。その後悲劇《オトン》(1664),《アッティラ》(1667)などを書くが,時代はすでにコルネイユ的英雄から離れ,優美な恋愛を求めていた。悲劇《シュレナ》(1674)を最後に引退。

 観客の〈驚嘆〉が悲劇には不可欠と考えていた彼は,しばしば異常な状況に直面する偉大な魂を扱う。登場人物は勇敢で意志強く,名誉を求めて恋の情念をも意志の力で抑えこむ。意志悲劇と言われるゆえんである。しかし想像力豊かな彼は,悲劇のみならず,喜劇,悲喜劇にも才能を発揮した。内面の葛藤を美しく高尚な文体で描き演劇に深みを与えたことで,彼はフランス古典劇の創始者となった。弟トマThomasも劇作家(代表作は《ティモクラート》1656)で,当時は人気があった。
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百科事典マイペディア 「コルネイユ」の意味・わかりやすい解説

コルネイユ

フランスの劇作家。フォントネルの伯父に当たり,末弟トマ・コルネイユも劇作家。ルーアンの司法官の家柄に生まれ,1650年まで同地で弁護士を務めた。喜劇《メリート》(1629年)で好評を博し,悲劇《ル・シッド》(1636年)で名声を確立,続く《オラース》(1640年),《シンナ》(1642年),《ポリュークト》(1642年)はローマ時代の人間を扱って古典悲劇の傑作となった。性格喜劇《嘘つき男》も成功し,モリエールに先行。《ニコメード》《ペルタリート》以後意気が衰え,《エディップ》で再起したが,晩年は不遇だった。理想的人間を描いて崇高な意志を賛美,悲壮美を創造したコルネイユは,モリエール,ラシーヌと並んでフランスの三大古典劇作家と称される。→古典主義
→関連項目アンドロマック三統一スキュデリールーアンルイス・デ・アラルコン

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現代外国人名録2016 「コルネイユ」の解説

コルネイユ
Corneille

職業・肩書
シンガー・ソングライター

国籍
カナダ

生年月日
1977年3月24日

出生地
西ドイツ・バーデン・ビュルテンベルク州フライブルク(ドイツ)

経歴
父親がツチ族、母親フツ族で、ドイツで生まれる。裕福な家庭育ち、幼い頃からラジオやレコードで音楽に親しむ。6歳で両親の故郷ルワンダに移る。1994年17歳の時、フツ族とツチ族の民族対立によるルワンダ大虐殺で父母と兄弟が目の前で殺された。自身は危うくまぬがれ、両親の友人を頼って再びドイツに渡った。独学で作曲を学び、2002年シンガー・ソングライターとしてデビュー。メッセージ性の強い、洗練された現代的なR&Bが持ち味で、フランス語で発表した2枚のアルバムはカナダのフランス語圏やフランスで大ヒット。2007年アルバム「ザ・バース・オブ・コーネリアス」(歌詞は英語)で日本デビュー。現在はカナダ国籍を持つ。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「コルネイユ」の意味・わかりやすい解説

コルネイユ
Corneille, Pierre

[生]1606.6.6. ルーアン
[没]1684.10.1. パリ
フランスの劇作家。大コルネイユと称される。フランス古典劇に初めて典型的均整美を与えた。やがてモリエールにおいて結実する喜劇史上最初の優雅な喜劇をいくつか書いたのち,不朽の名作『ル・シッド』 Le Cid (1637?) によってフランス古典悲劇を確立。次いで三大傑作悲劇『オラース』 Horace (40) ,『シンナ』 Cinna (41) ,『ポリウクト』 Polyeucte (43) を発表。彼の悲劇は,ラシーヌのそれが情熱の悲劇であるのに対し,英雄主義的な劇に愛国心,名誉,信仰,献身などの高潔な感情を盛込み,理想の人間を描いて意志力を賛美した。ほかにフランス最初の本格的性格喜劇『ほら吹き』 Le Menteur (39) がある。

コルネイユ
Corneille, Thomas

[生]1625.8.20. ルーアン
[没]1709.12.8. レザンドリ
フランスの劇作家。 P.コルネイユの弟。喜劇『自分自身の牢番』 Le Geôlier de soi-même (1655) ,悲劇『チモクラート』 Timocrate (56) など 43編がある。スペイン演劇の影響が強い作品や時流に迎合した劇作が多く,筋立ての巧みさはあっても独創性に乏しく,兄の天才には遠く及ばなかった。晩年には『技術・科学用語辞典』 Dictionnnaire des termes d'arts et de sciences (94) や『地理歴史辞典』 Dictionnaire géographique et historique (1708) の編纂に従事。ほかにラテン語の翻訳もある。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「コルネイユ」の解説

コルネイユ
Pierre Corneille

1606~84

フランス古典主義悲劇の創始者。簡潔な構成のなかに理性と意志により情念を克服しようとする英雄的な人間を描く。代表作『ル・シッド』『シンナ』『オラース』『ポリウクト』。

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旺文社世界史事典 三訂版 「コルネイユ」の解説

コルネイユ
Pierre Corneille

1606〜84
フランスの劇作家
ラシーヌと並ぶフランス古典悲劇の代表者。理性と意志の勝利をテーマにして『ル=シッド』『オラース』『ポリュークト』などの傑作を残す。

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世界大百科事典(旧版)内のコルネイユの言及

【古典主義】より

…その文化政策であるアカデミー・フランセーズ創設(1635)や文人,芸術家の庇護は,上からの改革として古典主義の確立に大きな役割を果たし,アカデミー・フランセーズの中心人物シャプランJean Chapelain(1595‐1674)は,16世紀以来のイタリア人文学者を中心とするアリストテレス《詩学(創作論)》の読解を受けて,古典主義の理論的基準となる規則論を確立する。1637年初演のP.コルネイユの悲喜劇《ル・シッド》をめぐるアカデミー側と作者側の規則論議(いわゆる〈ル・シッド論争〉)は,40年代のコルネイユ自身の〈規則にかなった悲劇〉(《オラース》《シンナ》《ポリュークト》)の制作と成功によって,実践の領域へと超えられていく。もっとも絶対王政成立にとって最も大きな試練であったフロンドの乱の前後には,リシュリューの後を継いだイタリア人の宰相・枢機卿J.マザランによるイタリア・オペラの導入をはじめ,バロック的なものが隆盛を誇る。…

【詩劇】より

…詩的高揚のみならず,きわめて論理的・散文的思考の表現にも適したこの詩形を,彼は完璧に使いこなした。同時代スペインのローペ・デ・ベガやカルデロン・デ・ラ・バルカ,ルイ14世時代,いわゆる〈古典主義〉の時代のP.コルネイユやJ.ラシーヌも,輝かしい詩劇を作った。この黄金時代のあと衰微した詩劇の復興を図ったのはロマン派詩人たちだった。…

【フランス演劇】より

…中世から現代に至るフランス演劇の大きな特徴は,(1)歴史的には,17世紀に起こった一連の変化・断絶を軸として,それ以前とそれ以後に大別され,17世紀以降の演劇の多くのものが,劇場における上演という形にせよ,劇文学の読書という形にせよ,今日まで一応は連続して共有されてきたのに対し,17世紀以前の演劇は,少数の例外を除いて,演劇史あるいは文学史の〈知識〉にとどまること,(2)構造的には,17世紀に舞台芸術諸ジャンルの枠組み(〈言葉の演劇〉,オペラ,バレエ等)が成立し,国庫補助を含むその制度化(王立音楽アカデミーは1669年,コメディ・フランセーズは1680年に開設された)が進むと,演劇活動のパリの劇場への集中化が行われ,演劇表現内部における〈言葉の演劇〉の優位とそれに伴う文学戯曲重視の伝統が確立したことである。特に最後の点は,コルネイユ,モリエール,ラシーヌに代表される劇文学が,一般に諸芸術の内部で規範と見なされるに至ったことと相まって,以後300年のフランス演劇とフランス文化に決定的な役割を果たした。
【中世――宗教劇と世俗劇】
 中世フランスは,ヨーロッパの中でも,宗教劇・世俗劇ともに隆盛を見た地域だった。…

【ブルゴーニュ座】より

…こうしてバルラン・ル・コントValleran Le Comteの率いる〈国王付き劇団〉などが使用し,A.アルディ,J.ロトルー,J.メレらの劇作品を初演した。1634年に競争相手のマレー座Théâtre du Maraisが創設され,P.コルネイユの作品がモンドリーMon(t)dory(1594‐1653)率いる一座によって上演されるまで劇界に君臨した。モンドリーの病気引退(1636)後,力を取り戻し,座長フロリドールFloridor(?‐1672)の率いる〈ブルゴーニュ座国王付き劇団〉が発足し人気を得た。…

【ル・シッド】より

…フランスの劇作家コルネイユの戯曲。5幕韻文悲喜劇。…

※「コルネイユ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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