フランス古典劇の大作家。
[岩瀬 孝]
6月6日、北フランス、ルーアンの代々官吏で篤信の家の長男に生まれる。1615~22年の間、同市のイエズス会経営の学院に学び、自由意志優先の信仰とセネカの克己思想を知り、ラテン語で優等賞を得た。この教育は、彼の思想と芸術を方向づけた。24年ルーアンの法院で法律を実習し法学士となるが、口下手で法廷に適さず、28年父から治水山林と港湾関係の監督官職の株を与えられ、50年まで奉職する。
[岩瀬 孝]
閑職で、詩作にふけり、市の社交界に出入りし、カトリーヌ・ド・ユー嬢への恋に刺激されて、社交界の若い男女の恋愛を描いた喜劇『メリット』(1629初演、1634刊)をルーアンで興行中のモンドリー一座に持ち込み、劇団はパリで初演に成功、以後マレー座で彼の作品を連続上演する。コルネイユは悲喜劇『クリタンドル』(1630初演)に成功せず、喜劇『未亡人』(1632初演)の好評ののち、『法院の回廊』(1632初演、1637刊)を頂点とする一連の喜劇で有名となる。後の『嘘(うそ)つき男』(1634初演、1644刊)は喜劇系の傑作で、モリエール以前に社交界人の鑑賞に堪える文学的喜劇を確立した功績は大きい。宰相リシュリューは彼の才能をみて、劇作家ロトルーらと『チュイルリー宮の喜劇』(1635初演)を合作させたが、彼は御用作家となるのを好まず、ルーアンに在住した。
[岩瀬 孝]
1630年ごろ学識者と社交界は古代悲劇の格調と形態に準じた正則悲劇を求め、これに応じたメーレの『ソフォニスブ』(1634初演)が成功した。これをみたコルネイユは、当時研究中のスペイン劇に取材し、悲喜劇『ル・シッド』(1637初演・刊、60年版では『悲劇』と改題)で、家門の名誉のため仇(かたき)同士となった相愛の男女を主人公とし、自由意志が情念より義務を選び、高邁(こうまい)な行動を貫く過程を人物の内面の葛藤(かっとう)として描き、画期的な成功を収めた。しかし、嫉妬(しっと)した同輩から、女主人公が仇に恋するのは礼節に背き、時と所と筋の単一という規則に反し、種本があるなどと攻撃され、「ル・シッド論争」となり、リシュリューは文壇の長老シャプランに「アカデミーの意見」を発表させて論争を収めた。コルネイユは3年の沈黙ののち、愛国の悲劇『オラース』(1640初演・刊)、寛容の悲劇『シンナ』(1642初演、1643刊)、信仰の悲劇『ポリュクト』(同上)を発表、不滅の名声を得て、古典悲劇を確立した。『シンナ』で、ローマ皇帝オーギュストは、自分を父の仇とする美女エミリーへの愛から反逆をたくらんだ友シンナを許し、この度量を仰がれ、「私は世界に君臨する主君、自分に対しても支配者」と誇る。『ポリュクト』はローマの属国アルメニアの貴族の名で、彼は国禁のキリスト教に帰依(きえ)し、ローマ人総督の娘である妻ポーリーヌの嘆願を退け、義父の命令で処刑されるが、その悲壮な信念で妻と義父を改宗させ、妻の昔の恋人のローマの騎士セベールも感動する。3編とも三一致の法則(場所は同一地域という解釈)を守り、壮麗な韻文で、意志で情念を克服する高邁な人物を描き、今日も愛誦(あいしょう)される名文句が多い。
[岩瀬 孝]
彼は1640年法官の娘マリ・ド・ランペリエールと結婚し、ルーアンに定住するが、宰相マザランの知遇を得てパリ社交界にも出入りし、秀作『ロドギュンヌ』(1644初演、1647刊)で老王妃が権力欲と嫉妬から自滅する姿を描き、47年アカデミー会員となる。フランスの内乱、フロンドの乱(1648~53)ではマザラン派にくみし、混乱のなかで官職を失い、教会の会計係に甘んじながら、宗教書『キリストに倣いて』の仏訳(1651~56刊)で名文をたたえられた。『ニコメード』(1651初演・刊)は、ローマの属領の王子が国民と隣国の女王への愛からローマに抵抗し成功する物語で、中期の作品を代表するが、このころから、異常な人物と状況を求めすぎて人間の実相を離れがちで、『ペルタリート』(1651初演、1653刊)で失敗、劇作の断念を宣言した。
[岩瀬 孝]
その後、弟トーマの成功、モリエール一座の女優ラ・デュ・パルクへの恋、財務卿(きょう)フーケの勧めなどで劇界に復帰し、1660年演劇理論家ドービニャックの『演劇の実際』に反論する「劇詩論」と「自作吟味」を添えた『自選改訂戯曲集』を刊行し、62年パリに移住したが、フーケの失脚後、新権力者コルベールに冷遇され、75年、王の年金まで取り消された。同年の『セルトリュス』は、亡命したローマの老名将をめぐる政治と結婚の駆け引きを描き、後期の代表作だが、以後の作品は同じ趣向が続き、自然な心情と優美な恋愛を求める新風潮に好まれず、70年、後輩ラシーヌと同一主題で競作した『ティットとベレニス』(1670初演、1671刊)では、作品の質が高いのに敗北を喫した。晩年の友モリエールの死、マレー座の併合、妻の病、息子の死など不利な状況のなかで、74年『シュレナ』(1674初演、1675刊)が歓迎されないのをみて筆を断った。80~84年のころは作品の再演が多く、年金の復活をみてから84年10月1日、パリで病死した。
[岩瀬 孝]
『岩瀬孝・伊藤洋他訳『コルネイユ名作集』(1975・白水社)』▽『ピニャール著、岩瀬孝訳『世界演劇史』(1955・白水社)』
フランスの劇作家。モリエール,ラシーヌとともに三大古典劇作家と称される。北フランス,ルーアンの中流家庭に生まれ,イエズス会の学校で学ぶ。その後法律を修めて弁護士になり,かたわら戯曲を書いた。処女作の喜劇《メリート》(1629)がパリで成功し,以後風俗喜劇《ロアイヤル広場》(1633)やバロック喜劇の傑作《舞台は夢》(1635)などを書く。彼の初期喜劇は上流人士の登場する上品なもので,喜劇の品位向上に貢献した。やがて1637年初頭,悲喜劇《ル・シッド》が初演されると,熱狂的な歓迎を受け大評判となった。ところがこの画期的成功をねたむ劇作家たちから三統一の規則への違反,盗作と非難され,ここに〈ル・シッド論争〉が起きた。3年間沈黙したのち,今度は規則に合致した三大意志悲劇の傑作,祖国愛を扱う《オラース》(1640),寛容を説く《シンナ》(1642),殉教を語る《ポリュークト》(1642)を発表,不滅の地位を築いた。以後も絶えず新しい演劇を探求し,喜劇《噓つき男》(1644),悲劇《ロドギュンヌ》(1644),《ニコメード》(1651)と傑作を発表。続く悲劇《ペルタリート》(1652)の失敗で一時筆を絶つ。7年後,悲劇《エディップ》(1659)で劇界に復帰。この間《演劇論》を執筆。その後悲劇《オトン》(1664),《アッティラ》(1667)などを書くが,時代はすでにコルネイユ的英雄から離れ,優美な恋愛を求めていた。悲劇《シュレナ》(1674)を最後に引退。
観客の〈驚嘆〉が悲劇には不可欠と考えていた彼は,しばしば異常な状況に直面する偉大な魂を扱う。登場人物は勇敢で意志強く,名誉を求めて恋の情念をも意志の力で抑えこむ。意志悲劇と言われるゆえんである。しかし想像力豊かな彼は,悲劇のみならず,喜劇,悲喜劇にも才能を発揮した。内面の葛藤を美しく高尚な文体で描き演劇に深みを与えたことで,彼はフランス古典劇の創始者となった。弟トマThomasも劇作家(代表作は《ティモクラート》1656)で,当時は人気があった。
執筆者:伊藤 洋
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1606~84
フランス古典主義悲劇の創始者。簡潔な構成のなかに理性と意志により情念を克服しようとする英雄的な人間を描く。代表作『ル・シッド』『シンナ』『オラース』『ポリウクト』。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…その文化政策であるアカデミー・フランセーズ創設(1635)や文人,芸術家の庇護は,上からの改革として古典主義の確立に大きな役割を果たし,アカデミー・フランセーズの中心人物シャプランJean Chapelain(1595‐1674)は,16世紀以来のイタリア人文学者を中心とするアリストテレス《詩学(創作論)》の読解を受けて,古典主義の理論的基準となる規則論を確立する。1637年初演のP.コルネイユの悲喜劇《ル・シッド》をめぐるアカデミー側と作者側の規則論議(いわゆる〈ル・シッド論争〉)は,40年代のコルネイユ自身の〈規則にかなった悲劇〉(《オラース》《シンナ》《ポリュークト》)の制作と成功によって,実践の領域へと超えられていく。もっとも絶対王政成立にとって最も大きな試練であったフロンドの乱の前後には,リシュリューの後を継いだイタリア人の宰相・枢機卿J.マザランによるイタリア・オペラの導入をはじめ,バロック的なものが隆盛を誇る。…
…詩的高揚のみならず,きわめて論理的・散文的思考の表現にも適したこの詩形を,彼は完璧に使いこなした。同時代スペインのローペ・デ・ベガやカルデロン・デ・ラ・バルカ,ルイ14世時代,いわゆる〈古典主義〉の時代のP.コルネイユやJ.ラシーヌも,輝かしい詩劇を作った。この黄金時代のあと衰微した詩劇の復興を図ったのはロマン派詩人たちだった。…
…中世から現代に至るフランス演劇の大きな特徴は,(1)歴史的には,17世紀に起こった一連の変化・断絶を軸として,それ以前とそれ以後に大別され,17世紀以降の演劇の多くのものが,劇場における上演という形にせよ,劇文学の読書という形にせよ,今日まで一応は連続して共有されてきたのに対し,17世紀以前の演劇は,少数の例外を除いて,演劇史あるいは文学史の〈知識〉にとどまること,(2)構造的には,17世紀に舞台芸術諸ジャンルの枠組み(〈言葉の演劇〉,オペラ,バレエ等)が成立し,国庫補助を含むその制度化(王立音楽アカデミーは1669年,コメディ・フランセーズは1680年に開設された)が進むと,演劇活動のパリの劇場への集中化が行われ,演劇表現内部における〈言葉の演劇〉の優位とそれに伴う文学戯曲重視の伝統が確立したことである。特に最後の点は,コルネイユ,モリエール,ラシーヌに代表される劇文学が,一般に諸芸術の内部で規範と見なされるに至ったことと相まって,以後300年のフランス演劇とフランス文化に決定的な役割を果たした。
【中世――宗教劇と世俗劇】
中世フランスは,ヨーロッパの中でも,宗教劇・世俗劇ともに隆盛を見た地域だった。…
…こうしてバルラン・ル・コントValleran Le Comteの率いる〈国王付き劇団〉などが使用し,A.アルディ,J.ロトルー,J.メレらの劇作品を初演した。1634年に競争相手のマレー座Théâtre du Maraisが創設され,P.コルネイユの作品がモンドリーMon(t)dory(1594‐1653)率いる一座によって上演されるまで劇界に君臨した。モンドリーの病気引退(1636)後,力を取り戻し,座長フロリドールFloridor(?‐1672)の率いる〈ブルゴーニュ座国王付き劇団〉が発足し人気を得た。…
…フランスの劇作家コルネイユの戯曲。5幕韻文悲喜劇。…
※「コルネイユ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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