尾立村(読み)おだてむら

日本歴史地名大系 「尾立村」の解説

尾立村
おだてむら

[現在地名]安心院町尾立

東恵良ひがしえら村の南、津房つぶさ川中流右岸の丘陵上にある。南は六郎丸ろくろうまる村、西は松本まつもと村。字きたには組合せ式石棺も出土した横穴群がある。「宇佐郡地頭伝記」によると、当村には津布佐つぶさ庄の庄官津布佐氏が住していたといい、康永三年(一三四四)創建と伝える臨済禅寺仏厳ぶつごん寺があった。近世領主の変遷は妻垣つまがけ村に同じ。小倉藩元和人畜改帳に村名がみえ、高三九一石余、人数一二七、百姓二三(うち庄屋五)・名子一二・牢人三、牛二四・馬七。正徳四年(一七一四)の村明細帳(安心院町誌)によると高五三四石余、うち本田畑四七六石余・新田畑五七石余。毛付は本田畑四七四石余・新田畑五六石余。反別は田方が上々田一町二反余・上田九町二反余・中田三町三反余・下田二町六反余・下々田一二町余、石盛は平均で一反につき田方が一石三斗余、畑方が九斗余である。


尾立村
ひじむら

[現在地名]高知市尾立

南流するかがみ川の中流東岸にあり、宗安寺そうあんじ村の東にあたる。鏡川沿いに高知城下と北西山間部を結ぶ往還が通る。土佐郡に属し、「土佐州郡志」は東西一五町余、南北三五町余で「厥土赤雑砂」と記す。天正一七年(一五八九)の朝倉庄地検帳に村名がみえ、検地面積一四町三反四六代二歩、うち出田二町五反四八代三歩。屋敷数二三、うち居屋敷一三。村内は長宗我部氏直轄地の御直分、旧在地領主と思われる稲毛分・中内記分をはじめ、野中与左衛門ほかの長宗我部氏家臣の給地などが入交じり、寺社分は大宮神田・大応院分がみえる。

元禄地払帳によると総地高一五〇石余、うち本田高一四三石余・新田高七石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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