日本歴史地名大系 「尾高村」の解説 尾高村おだかむら 鳥取県:米子市尾高村[現在地名]米子市尾高下郷(しものごう)村の南にあり、米子平野の東部を北へ流れる佐陀(さだ)川東岸平地とその東部の丘陵地を占める。ほぼ南北に日野往来、東西に大山道(尾高道)が通る。元亀二年(一五七一)と推定される七月一一日付の吉川元春書状(閥閲録)に「尾高」とあり、また同二〇年正月一一日の毛利輝元条々写(武田金三氏所蔵文書)には「小田加」と記される。いずれも地内にある西伯耆の要害泉山(いずみやま)城(泉城)をさし、同城は毛利・吉川両氏の支配下に入ってのち尾高城とよばれるようになったらしい。当村の丘陵地には古城(ふるしろ)・越(こし)ノ前(まえ)・本丸(ほんまる)・二(に)ノ丸(まる)・中丸(なかまる)・天神丸(てんじんまる)・大首(おおくび)など、平地部には古城山下(ふるしろさんげ)・真手平(まてひら)・上市屋敷(うわいちやしき)・小市場屋敷(こいちばやしき)・門田(かどた)などの小字があり、中世城郭と城下集落の存在を裏付ける。慶長五年(一六〇〇)米子に中村氏が入部し城下整備が行われると、当地の商工業者の一部は同城下へ移住、尾高町を形成した。近世には北部の前(まえ)市と南部の上市を合せて尾高村といい、郷帳類も尾高村一村で記す。だが文政元年(一八一八)の因伯古城跡図誌(県立博物館蔵)では前市村・上市村の二村とし、「伯耆志」も古くは上市前市一村で尾高といっていたが前年二村としたと記している。明治三年(一八七〇)領内限りで前市村・上市村に改めたとする説もあるが(藩史)、「在方諸事控」などの記述から近世中期には二村として扱われ、下札も二村各々に交付されていたらしい。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報