日野往来
ひのおうらい
江戸期の伯耆と備後・備中などを結ぶ往来。日野往来の呼称は江戸初期からあったといわれ、ほぼ日野川に沿って走る。江戸初期には伯耆街道の会見郡車尾村(現米子市)から分岐する出雲街道と重なっていたが、元禄(一六八八―一七〇四)頃から伯耆街道の小波村(現淀江町)で分岐し、尾高村(現米子市)を経て遠藤村(現岸本町)付近で出雲街道に合流するルートに変更された。日野郡溝口宿(現溝口町)で同街道と分れて日野川東岸を進み、江尾村(現江府町)を経て根雨宿(現日野町)に至る。根雨宿から黒坂村(現同上)へは日野川両岸の道があった。西岸(左岸)の道は根雨宿から日野川を渡って野田村(現同上)に至り、津地村―安原村―下榎村―下黒坂村(現同上)を経て黒坂村に達し、東岸(右岸)の道は根雨宿から漆原村―渡村―下菅村(現同上)を経て黒坂村に至った。天保二年(一八三一)には渡村の舟越孫四郎が同村と下菅村の間に架橋し、両岸の交通の便が図られた。橋は孫四郎橋といわれた。黒坂村から日野川西岸沿いに小河内村・楢原村(現同上)を経て生山村(現日南町)に至り、ここから東岸沿いを進み、矢戸村(現同上)で再び西岸に渡って多里宿(現同上)に達した。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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