日本歴史地名大系 「居都庄」の解説
居都庄
こづのしよう
古代上道郡居都郷(和名抄)の郷名を継ぐものか。岡山市東部の平野地帯、旭川下流と吉井川下流との中間地域、近世の
建久三年(一一九二)三月日の後白河院庁下文案(大徳寺文書)に「居都庄法華堂領」とみえ、安元二年(一一七六)に後白河院が院庁のあった法住寺殿内に建立した法華堂の所領で、領家職は建久三年以前に後白河院より寵妃丹後局高階栄子に譲られており、同年諸役が停止されている。建治年間(一二七五―七八)に資行(教成の曾孫)の叔父教頼は、資行に譲られていた山科家領のうち半分は自分に譲られたと亀山院に訴えた。弘安八年(一二八五)一二月六日教頼の主張は認められ、居都庄下村などが教頼、同庄上村が資行のものとなり(「教成卿遺領事」宮内庁書陵部蔵)、この時に上・下両村に分割されたと推定される。以後、当庄など家領をめぐって教頼流は大覚寺統に、資行流は持明院統について争うこととなる。
正安元年(一二九九)両流の間で和談が成立し、教頼が奪った文書・重宝などを教頼の子教定が資行に返却することとなったが、実行しなかったため、一〇月二八日「
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報