浦上氏(読み)うらがみうじ

改訂新版 世界大百科事典 「浦上氏」の意味・わかりやすい解説

浦上氏 (うらがみうじ)

室町時代の播磨備前豪族。本姓は紀氏と伝え,播磨揖西郡浦上荘を本貫地とする。大徳寺開山宗峰妙超も浦上氏の出自。南北朝時代,赤松氏が播磨・備前・美作の守護として台頭すると,その被官となる。行景,宗隆,助景らが備前守護代を歴任し,本拠も備前東部の和気郡三石城に移った。嘉吉の乱で赤松氏が没落した後,浦上則宗が出て赤松政則を補佐し,赤松氏再興の中心的存在として応仁の乱に活躍,政則を播備作3国守護および侍所所司に復権せしめ,みずからも所司代となり在京して重責を果たした。また政則死後も幼主義村を奉じて赤松家中に重きをなした。さらに村宗の代には,三石城を拠点に勢力を強め主家赤松氏と対立,1521年(大永1)には義村を殺して実権を奪い,浦上氏の全盛期を築いた。その子浦上宗景も,尼子氏・毛利氏と争い備作両国の領国化に努めたが,その家臣から宇喜多直家が台頭し,毛利氏と結んだ直家に77年(天正5)居城天神山城を攻略され,以後再興はならず滅亡した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「浦上氏」の意味・わかりやすい解説

浦上氏
うらがみうじ

播磨(はりま)国(兵庫県)揖西(いせい)郡浦上庄(しょう)を本貫とする在地領主。南北朝期以降赤松氏が守護大名として成長するに伴い、その有力家臣としてしだいに政治的に発展した。1367年(正平22・貞治6)備前(びぜん)(岡山県)守護赤松則祐(そくゆう)の守護代として浦上行景が認められるのを初見として、同国守護代職を一族で相継ぎ、備前東部は同氏の重要な拠点になった。また1437年(永享9)浦上三郎は播磨国検断奉行(ぶぎょう)として認められるが、彼は侍所(さむらいどころ)所司でもあった守護赤松満祐(みつすけ)のもとで所司代をも兼ねていた。守護赤松氏再興後の浦上則宗(のりむね)の政治的地位はきわめて高く、その領国支配根底から支え、一族の権勢は飛躍的に発展した。1502年(文亀2)則宗は死没。その嗣子(しし)村宗は1520年(永正17)守護赤松義村(よしむら)を追い、播磨、備前、美作(みまさか)(岡山県)に支配権を確立したが、中央の政治抗争にかかわり31年(享禄4)戦死。浦上氏の大名権力としての成長はここに終わった。

[岸田裕之]

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旺文社日本史事典 三訂版 「浦上氏」の解説

浦上氏
うらがみし

中世,播磨国(兵庫県)浦上庄に住んだ豪族
南北朝時代,赤松氏の台頭によりその重臣となり,応仁の乱では細川勝元の東軍に属して活躍した。侍所所司赤松氏のもとで所司代兼山城国守護代となり,さらに1521年赤松氏を倒して,播磨・備前・美作 (みまさか) (岡山県)を支配。'61年家臣の宇喜多直家に追われ,滅亡した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「浦上氏」の意味・わかりやすい解説

浦上氏
うらがみうじ

紀氏。代々播磨国浦上荘に住み,行景のときから浦上氏を称した。赤松氏に仕え守護代となり,応仁の乱で活躍。のち主家を倒して自立。永禄4 (1561) 年宗景のとき,家臣宇喜多直家に破られ滅亡。

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世界大百科事典(旧版)内の浦上氏の言及

【備前国】より

…のちに一時期,幕府吏僚の長井泰重(大江広元の孫,六波羅評定衆)に代わったが,鎌倉末期には守護は佐々木(加地)氏に復していた。 南北朝期には,東国出身の国人松田氏や,足利氏支族の細川氏が守護になったが,1365年(正平20∥貞治4)に松田氏に代わって播磨守護赤松則祐(そくゆう)が備前守護を兼ね,義則,満祐と子孫がその職を継いだので,国人土豪は赤松氏の被官化し,また浦上氏などの播磨の武士が流入して赤松氏の領国化した。赤松氏は福岡に守護所をおき,備前を東西に2分して浦上,松田両氏をそれぞれ守護代としたが,嘉吉の乱で没落した。…

※「浦上氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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