日本歴史地名大系 「二井宿街道」の解説 二井宿街道にいじゆくかいどう 山形県:東置賜郡高畠町二井宿街道七(しち)ヶ宿(しゆく)街道(羽州街道)湯原(ゆのはら)宿(現宮城県刈田郡七ヶ宿町)から二井宿峠を越え、二井宿(新宿)村―安久津(あくつ)村―高畑(たかはた)(高畠)村―竹森(たけのもり)村を通り、爼柳(まないたやなぎ)村(現南陽市)で米沢街道に合していた近世の街道。現国道一一三号にほぼ合致する。爼柳村から西は大塚(おおつか)街道の名でよばれ、出羽を横断し、越後と陸奥を結ぶ道として古くから利用されてきたと推定される道である。湯原に「右はもがみ海道」「左は米沢海道」と記された庚申塔があり、湯原辺りでは米沢街道の称でよばれていた。「もがみ海道」は金山(かねやま)峠を越える羽州街道である。また元禄二年(一六八九)頃の高畠絵図(貞泉寺蔵)では、高畠城の北側川原(かわら)町の通りには「仙台海道」、西方大(おお)町には「米沢道」の書入れがある。二井宿峠が開かれ、二井宿―湯原間の主道になった時期は不明だが、伝えによれば、伊達氏領時代に九州浪人島津某が新宿(にいじゆく)に入り、馬足のかなわぬ古道を捨てて新しい峠道を開き、その功により伊達氏から峠の関守を命ぜられたという。この新しい峠道開削が二井宿峠越の整備であったかも知れない。古道は二井宿から屋代(やしろ)川沿いに北上、上(うわ)の台(だい)から東の沢に入り六四〇メートルの尾根を越えて干蒲(ひかば)(現七ヶ宿町)に出る道だったと推定されている。この道は上の台からさらに北上すれば柏木(かしわぎ)峠(二重坂)を越えて羽州街道上山(かみのやま)宿に至り、途中左手を進めば小岩沢(こいわさわ)村(現南陽市)に至る。なお上の台から尾根を越え東方干蒲へ向かう道とは別に、尾根を越えたあたりから南下し、湯原宿に向かう沢道もあったとみられ、現七ヶ宿町側に古道沢の称が残っている。屋代川沿いには遺跡・古墳の分布が密にみられ、古くからのこの道の利用を物語っている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by