大島町
おおしままち
面積:七・九六平方キロ
射水郡の北西端に位置し、東は小杉町、西は大門町・高岡市、南は大門町・小杉町、北は新湊市。北流する庄川が高岡市との境となり、町の南西端を和田川が流れ、庄川に注いでいる。東神楽川が町の中央を北流している。町域は射水平野に属し、大部分が標高一〇メートル未満の平坦地である。西部幹線用水・七ヶ用水・八ヶ用水・九ヶ用水・三ヶ用水・曲柳用水などが流れ、三〇〇ヘクタールの水田が灌漑され、射水地方の代表的な水稲地帯となっている。南部をほぼ東西にJR北陸本線が通り、主要地方道富山―高岡線や新湊―庄川線、県道八町―大門線で各地と結ばれる。
考古遺跡は庄川右岸扇状地の微高地上に立地する。町域の大部分はかつては古放生津潟の湖底であったが、その後の沖積作用によって陸地化したものである。そのため最も古い時代の遺跡でも縄文時代後期である。北高木や赤井・新開発・鳥取などに遺跡があり、鳥取では石棒が出土している。これらの地区や八塚などではその後も弥生時代から中世にわたって人々が住んでいたことが出土遺物からわかる。
大島町
おおしまちよう
面積:一三・三一平方キロ
西彼杵半島の西に位置し、西方に五島灘が広がる。南西は崎戸町、東は西海町で、崎戸町との間の中戸瀬戸に中戸橋が架橋される。大島(面積一二・三九平方キロ、周囲約二九キロ)と寺島水道を挟んでその東にある寺島(面積〇・七七一平方キロ)、および端ノ島・中ノ島・片島などの無人島からなる。大島のほぼ中央部に百合岳(一九三・七メートル)があり、この西部を西海、東部を東海と称している。西海は緩やかな傾斜地で耕地化されたが、急傾斜の東海では大正・昭和期以来の炭鉱のボタによる埋立と開削が行われ、大きく様相が変わった。南部を主要地方道の崎戸―大島線が通り、東部で県道の黒瀬―馬込港線に通じる。西彼杵半島県立公園のうち。
大島では石鏃・石匙などが採集され、弥生時代前期から中期にわたる田ノ浦A遺跡、弥生土器や古墳時代の須恵器が発見された中戸遺跡がある。
大島町
おおしまちよう
面積:四八・〇七平方キロ
屋代島の西部に位置し、東の町境界に北から文珠山(六六二・七メートル)・嘉納山(六八四・九メートル)・源明山(六二四・七メートル)が立ち、西部には頂海山(四五四・九メートル)、南東部に馬の瀬(五三八メートル)が連なる。町の北西部は本土に近接、大畠の瀬戸を形成する。その海上に笠佐島がある。地勢は東部と南部に連なる連山が海岸線にかけて急傾斜するが、ほぼ中央を北西に向かって屋代川が流れる。また、北西にある飯の山(二六三・五メートル)を挟んで三蒲川が北西に流れ、小松・三蒲平野を形成するが総じて平野は少なく、山麓を利用して蜜柑栽培が盛んである。とくに頂海山南麓は著名。
大島町
おおしまちよう
[現在地名]江東区永代二丁目
蛤町の南にある町屋。西は川を隔てて中島町に面し、南から東にかけては大島川の蛇行に沿って、武蔵忍藩松平(奥平)家中屋敷・幕府調練場・紀伊新宮藩水野家中屋敷・三河吉田藩松平家抱屋敷・尾張徳川家抱地および石置場などに面する。中島町に通じる大島橋の往来を挟んで南北に町屋が広がり、調練場へは三蔵橋が架かる。
大島町
おおしままち
面積:九一・〇六平方キロ
ほぼ大島一島からなる。明治四一年(一九〇八)大島・八丈島に島嶼町村制が施行され、岡田・新島・野増・差木地・波浮港・泉津の六ヵ村はそれまでの名主制度を改めて村長を置いた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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大島〔町〕
おおしま
東京都,伊豆諸島の大島全域を占める町。大島支庁に属する。 1955年元,岡田,泉津,野増,差木地,波浮港 (はぶみなと) の6村が合併し,町制が施行。江戸時代は幕府直轄地。 1878年東京府に編入。長く流刑地であったこともあり,特異な風俗が残る。自給的な農漁業が行われてきたが,次第に園芸農業や観光業が発達。花卉栽培が行われ,つばき油,テングサ,バターなどを産する。元町が中心街で,大島支庁の所在地。岡田港と元町港は大型汽船の寄港地。大島は三原山とその山麓から成る火山島で,富士箱根伊豆国立公園に指定され,観光が重要な収入源となっている。 1986年 11月に三原山が 22年ぶりに噴火,全島民が一時避難した。東京から航空路と船便,伊東,熱海,稲取などからは船便がある。北東部泉津の都立大島公園には天然記念物の大島海浜植物群落,付近にはシイノキ山シイノキ群叢がある。その南東のサクラ株 (オオシマザクラの巨木) は特別天然記念物。面積 90.76km2。人口 7102(2020)。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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