デジタル大辞泉
「藤原基衡」の意味・読み・例文・類語
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ふじわら‐の‐もとひら【藤原基衡】
- 平安末期の陸奥の豪族。清衡の子。父の後を継ぎ三〇年余にわたって陸奥六郡を支配した。毛越寺(もうつじ)を建立するなど平泉文化を開花させ、奥州藤原氏の全盛を築いた。生没年未詳。
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藤原基衡
没年:保元2頃(1157)
生年:生年不詳
平安末期の武将。奥州藤原氏の2代。父は藤原清衡。陸奥・出羽押領使。父の死の直後の大治4(1129)年に弟の惟常と戦ったというが,別に,同じころに弟の御曹子というものが兄の小館を攻め殺したという史料もある。後者が正しいとすれば,御曹子というのが基衡のことで,彼は兄を殺して2代目にすわったことになる。陸奥・出羽両国にある摂関家藤原氏の荘園の現地管理者であり,久安5(1149)年から5年間にわたって,左大臣藤原頼長とその年貢の額をめぐる争いを行っている。京都の法勝寺などをモデルとして,平泉に毛越寺を創建した。毛越寺の付近には,その伽藍配置と同じ方向の地割りが見られ,都市平泉は基衡のころに整備されはじめたようである。遺体は中尊寺の金色堂に安置されている。身長165cm以上。3代の中ではもっとも巨漢である。いかり肩で肥満体であった。遺体の観察による年齢は50ないし60歳といわれ,3代の中ではもっとも若死にである。脳溢血のような病気によって急死したものと推定されている。血液型はA型。<参考文献>朝日新聞社編『中尊寺と藤原四代』,高橋富雄『奥州藤原氏四代』
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藤原基衡
ふじわらのもとひら
生没年不詳。古代末期東北の武将。奥州藤原氏第2代。父清衡(きよひら)が開いた平泉(ひらいずみ)創業の仕事を強力に推進し、「在国司」の称があった。宗形宮内卿師綱(むなかたくないきょうもろつな)が国守として下向して検注を行ったときには、信夫(しのぶ)大庄司季春をして抵抗させ、左大臣藤原頼長(よりなが)の荘園(しょうえん)年貢増徴の要求にもたやすく応じなかった。毛越寺(もうつうじ)を建立するときの豪奢(ごうしゃ)な贈物は都人の耳目を聳動(しょうどう)させ、その「荘厳(しょうごん)」は「吾朝無双」と称された。3代中もっとも恵まれた体躯(たいく)の持ち主だった。
[高橋富雄]
『高橋富雄著『平泉』(教育社歴史新書)』
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藤原基衡 (ふじわらのもとひら)
生没年:?-1157ころ(保元2ころ)
平安後期の奥州の豪族。父は藤原清衡。母は安倍宗任(むねとう)の娘。陸奥・出羽押領使。父の死の直後の1129年(大治4),弟の惟常(これつね)と戦って勝ち,奥州藤原氏の2代目となった。奥羽の摂関家領荘園の管理者になっていて,1153年(仁平3)には年貢について右大臣藤原頼長と争っている。平泉に毛越(もうつ)寺を建立。遺体は中尊寺金色堂に葬られ,1950年の調査の結果では,身長165cm以上,死亡年齢は54~55歳ぐらいという。
執筆者:大石 直正
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藤原基衡【ふじわらのもとひら】
平安末期の陸奥(むつ)の豪族。清衡の子。父の跡を継ぎ奥州(おうしゅう)を30余年支配。清衡,子の秀衡とともに奥州藤原氏三代の栄華を誇り,毛越(もうつう)寺を建立。ミイラ化した遺体は中尊寺金色堂に現存。
→関連項目平泉
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藤原基衡
ふじわらのもとひら
[生]?
[没]保元2(1157).3.19.
平安時代末期の奥羽地方の豪族。陸奥出羽押領使。父は清衡。平泉を居所として奥羽2国に勢威をふるい,陸奥守藤原師綱に対抗して信夫郡入部を拒んで合戦した。陸奥国高鞍,本良,出羽国大曾称,屋代,遊佐など5庄の領主として,その年貢に関し,久安5 (1149) 年以降左大臣藤原頼長と折衝を重ねた。京都の文化を盛んに移植し,平泉に毛越 (もうつ) 寺を建立した。平泉中尊寺にある遺体を調査した結果,行年 54歳または 55歳と推定される。 (→平泉文化 )
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藤原基衡
ふじわらのもとひら
?~1157?
平安後期の武将。清衡の子。母は平氏という。陸奥・出羽両国の押領使。父の死の直後,1129年(大治4)兄惟常(これつね)と戦って勝利を収め,奥州藤原氏2代目当主の地位を確立。平泉を本拠に奥羽両国を支配し,子の秀衡とともに奥州藤原氏の全盛期を築いた。摂関家に所領を寄進しその管理にあたったが,53年(仁平3)年貢増徴をめぐって藤原頼長と争った。毛越(もうつう)寺を建立。
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藤原基衡 ふじわらの-もとひら
?-? 平安時代後期の豪族。
藤原清衡(きよひら)の子。奥州藤原氏2代で,陸奥(むつ)・出羽(でわ)押領使(おうりょうし)。陸奥守(かみ)藤原師綱(もろつな)の検地に抵抗,また管理していた摂関家領荘園の年貢増額をめぐって藤原頼長(よりなが)と長年あらそった。平泉に毛越(もうつう)寺を建立。保元(ほうげん)2年(1157)ごろ,50代半ばで死去。
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藤原基衡
ふじわらのもとひら
生没年不詳
平安末期の陸奥国の豪族。奥州藤原氏第2代
清衡の子。父のあとを継いで出羽国押領使となり,京都文化を移植し,毛越寺 (もうつじ) を再建。遺骸はミイラとして中尊寺金色堂に納められている。
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世界大百科事典(旧版)内の藤原基衡の言及
【在国司】より
…在庁官人一般を統轄する,いわば在地における有勢者としての側面から在国司の呼称が用いられるに至ったものである。鎌倉時代の説話集《十訓抄》には陸奥国をその武威によって支配した藤原基衡が在国司と呼ばれたことが見えているが,これも基衡が国司にも匹敵する在地の実質的権力を保有していたためであろう。【関 幸彦】。…
【平泉文化】より
…平安時代末の12世紀,[奥州藤原氏]代の保護のもとに,その居館のあった平泉を中心に開花した仏教文化。平泉は,その盛時には[中尊寺](ちゆうそんじ),[毛越寺](もうつじ),無量光院(むりようこういん)などの大寺院が甍(いらか)を並べ,日吉,白山,祇園,王子,北野天神,金峰山,今熊野,稲荷などの諸社が計画的に配置された都市であった。 中尊寺は[藤原清衡](きよひら)によって1105年(長治2)に着工され,26年(大治1)3月24日に落慶供養が行われた天台系の寺院で,このときの堂宇は,供養願文によれば三間四面の檜皮葺堂1宇,三重塔3基,二階瓦葺経蔵1宇,二階鐘楼1宇というものであったが,《吾妻鏡》の文治5年(1189)9月17日条では,寺塔60余宇,禅坊300余宇といわれている。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」