改訂新版 世界大百科事典 「山口正弘」の意味・わかりやすい解説 山口正弘 (やまぐちまさひろ)生没年:?-1600(慶長5) 安土桃山時代の武将。初め宗永,宗長とも名のった。甚兵衛,玄蕃頭を称する。豊臣秀吉に仕え,1583年(天正11)賤ヶ岳の戦に従軍。のち秀吉の養子秀秋(のちの小早川秀秋)の補佐となったが秀秋に嫌われたという。慶長の役では秀秋に従って朝鮮へ渡海。帰国後再び秀吉に仕え,加賀大聖寺城6万石を領した。関ヶ原の戦では西軍に属し,籠城して前田利長軍と戦ったが落城し自殺。〈玄蕃縄〉の名を残すように検地に能力を発揮した。執筆者:細溝 典彦 出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報 Sponserd by
朝日日本歴史人物事典 「山口正弘」の解説 山口正弘 没年:慶長5.8.4(1600.9.11) 生年:生年不詳 安土桃山時代の武将。尾張国鳴海の山口甚介光広の子。通称左馬助,従五位下・玄蕃頭に叙任された。名ははじめ宗永,宗長。豊臣秀吉に仕え,天正11(1583)年の賤ケ岳の戦で戦功をあげ,同17年ごろには丹波の山奉行を務めている。秀吉の命によって小早川秀秋の補佐役となり,慶長の役では朝鮮に渡海。そののち秀秋と不和になり,秀吉に仕え,加賀大聖寺城主として6万石を与えられた。関ケ原の戦では西軍に属し,大聖寺城に籠って東軍前田利長の軍勢と戦い,落城のとき自刃して果てた。 (小和田哲男) 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報 Sponserd by
デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「山口正弘」の解説 山口正弘 やまぐち-まさひろ 1545-1600 織豊時代の武将。天文(てんぶん)14年生まれ。豊臣秀吉につかえ,賤ケ岳(しずがたけ)の戦いに出陣。小早川秀秋の補佐役をへてふたたび秀吉につかえ,加賀大聖寺(だいしょうじ)6万石城主。関ケ原の戦いでは西軍に属し,籠城のすえ慶長5年8月4日戦死。56歳。前名は宗永,宗長。通称は甚兵衛,玄蕃頭(げんばのかみ)。 出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例 Sponserd by