山岡景友(読み)やまおかかげとも

改訂新版 世界大百科事典 「山岡景友」の意味・わかりやすい解説

山岡景友 (やまおかかげとも)
生没年:1540-1603(天文9-慶長8)

安土桃山時代の武将近江出身。景之の四男。景隆の弟。母は和田惟政の女。はじめ三井寺光浄院の僧となり暹慶せんけい)と号した。1572年(元亀3)山城半国守護。還俗して八郎左衛門,備前守を称し,織田信長に仕え本能寺の変では膳所(ぜぜ),勢多の船を押さえて明智光秀の安土入城を妨げた。のち豊臣秀吉に仕え剃髪して道阿弥と号し,お咄(はなし)の衆となる。関ヶ原の戦では徳川家康の上杉征伐に従軍,のち桑名城,神戸城,亀山城を接収。戦後家康から近江の内9000石を与えられる。1603年(慶長8)常陸古渡1万石に転封。
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朝日日本歴史人物事典 「山岡景友」の解説

山岡景友

没年:慶長8.12.20(1604.1.21)
生年天文11(1542)
安土桃山時代の武将。景之の4男。はじめは三井寺の僧として,暹慶を名乗る。還俗後は八郎左衛門,備前守となり,剃髪後は道阿弥を名乗った。元亀3(1572)年山城国(京都府)半国守護に補任される。足利義昭方にくみし,織田信長と交戦するが敗北,その配下となる。本能寺の変では,明智光秀軍の安土入りを妨げ,以降は豊臣秀吉の麾下となって活躍した。関ケ原の戦においては,徳川家康方について奮戦。特に長束正家の追撃や丹波国福知山城(京都府福知山市)攻略に戦功を上げ,恩賞として近江国内に領地を賜った。また伏見城下に居宅を授かり,慶長8(1603)年には家康を迎えている。

(宇野日出生)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「山岡景友」の解説

山岡景友 やまおか-かげとも

1542-1604* 戦国-江戸時代前期の武将。
天文(てんぶん)11年生まれ。山岡景之の4男。山岡景隆の弟。近江(おうみ)(滋賀県)園城(おんじょう)寺の僧。還俗(げんぞく)して織田信長につかえ,のち道阿弥と号して豊臣秀吉の御咄衆(おはなししゅう)となる。関ケ原の戦いでは徳川方にしたがった。慶長8年12月20日死去。62歳。近江出身。法名は暹慶(せんけい)。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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