朝日日本歴史人物事典 「山田業広」の解説
山田業広
生年:文化5.10(1808)
幕末明治期の医者。字は子勤,通称昌栄,号は椿庭。高崎藩(高崎市)藩医の家に生まれる。祖先は在原業平につながるという。儒学を朝川善庵に学び,医学を伊沢蘭軒に,また蘭軒没後は多紀元堅に師事した。さらに痘科を池田京水に学ぶ。安政4(1857)年江戸の医学館の講師となり,文久2(1862)年将軍徳川家定に謁見。明治維新後は漢方存続運動の団体・温知社の社首にも就任した。臨床家としての手腕は高く評価され,考証医学者としての著書も多い。嗣子に業精(1850~1907)がいる。<著作>『九折堂読書記』『金匱要略集注』『素問次注集疏』『医学管錐』『経方弁』
(小曾戸洋)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報