山西郷
やまにしごう
現美浜町の西部、おそらく御岳山を中心とする南北線以西、耳川以東が範域と考えられる国衙領。文永二年(一二六五)の若狭国惣田数帳写の本庄の項に、織田庄・山東郷に挟まれて「山西郷十五町六反」とみえ、この部分は一円荘織田庄の内部構成を示すと考えられるが、「便補保所々」の項に「山西郷六十三町二反二百四十歩」とあり、肩に付された朱書により山東郷とともに京都の天台常寿院に便補されていたことがわかる。同帳にはほかに山西・山東郷関係の記事がなく、この両郷は一円荘として織田庄を構成する部分と便補地部分に分れていたと推定される。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 